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わたしの名前を呼んでくれてありがとう

私の名前は間違っている。

祐子と書いて「ひろこ」と読む。
たぶん、祐子は「ひろこ」とはどうしたって読まないと思う。

もしかしてなにかすごい意味があり、
両親の強い思い入れがあってこう読ませたい!ということがあれば聞いてみたいと思い、母に尋ねたことがあった。
その時母は「たしか天皇の名前がこんなじゃなかった?」と言った。私はその意味がわからなかったのだが、後に昭和天皇の諱(いみな)が裕仁と知り、「
ひろひと」と読むことを知る。そこからの読みのヒントで私の名前にあてはめたのだ。
ということは、「祐子」にはもちろんなんの意味もなく、ただたんに漢字を間違えたということなのだろう。

名前はどんなふうに読ませてもいいらしいので、私の名前がダメということはないし、両親の思いがある名前でなくたって全然かまわなかったが
私の名前のこの漢字と読みのせいで
面倒な場面が結構あって、だんだんに自分の名前に愛着をもたなくなっていった。

例えば始めての場所などで名前を呼ばれる時は必ずといっていいほど「ゆうこ」さんである。フリガナをつけていてもそう呼ばれることがあった。
「祐子」と書いて「ひろこ」と読むんですと言うと、そうなんですか!申し訳ありませんと恐縮されてしまうので、こちらのほうこそ恐縮であり、今ではもうほとんど訂正もしなくなり「ゆうこさーん」と呼ばれても「はーい」と返事をしていた。

病院でもそんなことがあり、なんのきなしに名前の読みの話をしてみたら「え!ひろこと読むんですか?こちらの記載が間違っていて大変失礼しました!」と平謝りだったので驚いたことがあった。
「いえいえ皆さん間違えるので私もゆうこでもいいといつも思っているんです」などと答えたら「病院はお名前が必ず正しくなくては他の方になることもあるので漢字とその読みは大事なんです」と説明され、ああそうか!と今度はこちらの軽はずみな考えを平謝りしたりして…。


送られてくるDMはほとんど「裕子」という文字になっている。この漢字がコンピュータで弾かれるというのは「ひろこ」からだろうか「ゆうこ」からだろうかといつも考えてしまう。
そうなのだ。それこそ母の言う昭和天皇の「裕」を間違いなく使ってくれていたら、「裕子」という漢字だったら「ゆうこ」にも「ひろこ」にもなり得たのに。

でも私はなぜかこの「祐子」という漢字が嫌いではなかった。どちらかと言うとなんだかかっこいいと思っていたくらい。今でもとても好きだ。

それに、ある時私が自分の名前の間違いをぼやいていると「この漢字は神様を助けるという意味なんだよ」と言ってくれた人がいた。
いや、神様に助けられるだったかも。
でもそのどちらででもなんだか嬉しかった。
神様かあ!
特別な感じがした。
まあ、本当かどうかはわかりませんが。あはは。

でもね、とその人は続けた。
「これは男の子に付けることが多いから女の子の名前に使うと気が強くなるね」と笑った。
あ、当たってると思った。あはは。

私は小学生の頃
名前で呼ばれている人がうらやましかった。
名前をそのまま呼ばれるとか名前にちゃんをつけるあだなとかすごく親しみを感じていいなと思ったのだ。クラスの人気者がそんなふうに呼ばれていたから特にそう感じていたのかもしれない。

私はずっと苗字からのあだ名で呼ばれていた。
ひろことかひろちゃんとかいう雰囲気でもなかったのだろう。
けれど、成人して子どもが生まれるとママ友達の間で〇〇ちゃんと呼び合うことを提案された。
私はもちろん「ひろちゃん」と呼ばれた。
最初なんだかくすぐったいような、自分ではないような気持ちで落ち着かなかったが、憧れだった名前での呼び名を嬉しく思った。

次男が幼稚園児の頃、次男のお友達が私のことをふざけて「ひろこさん」と呼んだことがあった。私は笑ってしまったが、とても嬉しかったことを覚えている。私は彼にお礼を言った。
「おばちゃんを名前で呼んでくれてとても嬉しいよ、ありがとう!」
自分の子どもたちが大人になったら、私のことをお母さんではなく、ひろこさんと呼んでもらうのもいいなあなんて本気で思った。

だけど名前で呼ぶということでこんな思い出もある。アルバイト先で皆が店主の奥様を名前で呼んでいた。そこは古本屋で昔ながらのしきたりを感じる職場だった。アットホームというか、家族ぐるみの関係を感じるような雰囲気があった。だから私もその一員として、奥様を名前でお呼びしたほうがいいのかもしれない。と考えた。
店長(ご主人ではない。雇われ店長だった)に聞いてみてら「どっちでもいいんじゃない〜」と言うのでまた迷ったが、皆さんの仲間入りが出来る気がしてお名前で呼びたいなあとひそかに思っていた。
他の従業員はどんなふうに呼んでいるのかと慎重に様子をみながら、名前をお呼びすることを選択。
しかし、真正面から怒鳴られてしまう。
「あなたに私の名前を呼ばれる筋合いはありません!」アルバイトの私なんかがお近づきになりたいだなんて、思い上がりもいいとこだったのだ!
かなりの剣幕で叱られてしまった。

名前を軽んじてはいけない。
あたりまえのことなのだが、この一件は
大変反省させられ、
いまでも考えさせられる一場面である。

呼び方といえば、こんなことも思い出す。
子どもが生まれてから、夫が私のことを時々「おかあさん」と呼ぶようになった。
子どもを介して話をすると「おかあさんに聞いてごらん」とか使うようになり定着してしまうのもわからなくないが、私は嫌だと思った。
「おかあさんは役割だから名前じゃない」と、
もっともらしいことを言って猛然と阻止するが、夫はそんなたいしたことはないと思っていたのだろう。全く直してくれる様子がなかった。

ある日義理の父が義母のことを「ばーさん」と呼んでいたのを聞いた。
義父はふだんはこんなふうに義母のことを呼んではいない。私達の手前だけのふざけた場面であることはわかってはいたが、私はスルーできなかった。
私は冗談ぽく、でも半分本気で「ばーさんだなんて!ひどすぎますよ!」と義父に言った。
義父は笑っていた。

義父は義母のことを
普段はよく「かーさん」と呼んでいた。
いや「おい」が多かっただろうか。
とにかくもう名前なんて何十年も呼んでいないだろう。聞いたことがなかった。
私はこのことを今でも夫に言う。アレは絶対にいやだ!と。照れてそういう呼び名が出てくるとはいえ「ばーさん」は許せない!
夫もたしかにばーさんはひどいよなあと苦笑いした。

名前は呼ばなくなると呼びにくくなるような気がする。近しい人だと特に名前を呼ばなくても話が通じてしまって必要もなくなってくる。
だから意識して呼ばなくてはいつのまにかなくなってしまうのだ。
だから私はそうなりたくなくて、
夫を意識して名前で呼んできた。
でも、夫はもうかなり長いこと私を名前で呼んでいない。

最近長男が一人暮らしをはじめ、娘がこれから1年以上外国へ行ってしまう。こうやって子どもたちは家を出て、二人だけの生活になっていくのだ。
「私は名前で呼び合う夫婦でいたい」と夫に言う。

「ひろちゃんって呼んでくれて、いいよ」
子どもたちの前でふざけたように言ってみた。
「子どもたちもおかあさんがそう望んでることを知っていた方が呼びやすいでしょ?」
夫は少し戸惑うように笑いながら、うんそうだよねそれがいいと言った。

名前には愛着をもたなかったが、呼び名には敏感だったかもしれない。

名前は仲良くなるきっかけになるのだから。

こんな自分の名前や呼び名の経験が
自分の子どもの名前を考える時にかなり影響したように思う。
まず誰が読んでも同じように読める漢字。
そして子どもたちと友達になってくれた子たちが、名前そのままを呼びやすい名前!ということを意識して名付けた。

呼びつけで呼んでもらえるように!

そして今、
たくさんの大人や子どもが息子や娘の名前を、
「くん」も「ちゃん」も付けず、
名前そのままを
気さくに呼んでくれることに
とても嬉しく思っている。


全く思い入れがなかった自分の名前。
今でも「ひろこ」でもいいし「ゆうこ」でもいいやと思うことがある。いっそのこと「ゆうこ」のほうが面倒がなくていいとすら思う。

でも「ひろちゃん」と呼んでもらえるのは
照れくさいけど、本当に嬉しい。
その響きの中には
「あなたと仲良くしたい」というメッセージを感じる。親しみをこめてそう呼びますねと言ってくれているようで、
感謝の気持ちでいっぱいになる。

いまでは職場でもそんなふうに呼んでくれる人がいる。とても嬉しい。
〇〇さんと普通に苗字を呼んでも全く問題ないのに、名前を呼んでくれようと思ってくれたなんて。そんな気持ちの中にはいじわるな気持ちなんてないのではないだろうか。
だから相手の優しさを感じて、私でもそんなふうに呼んでもらってもいいんだ!という、自分を肯定できるような気持ちにさせてもらえる。
私もその人を〇〇ちゃんと呼ぶのも嬉しい。
もちろんいつも仲良しだ。


わたしの名前を呼んでくれてありがとう!
優しい気持ちをありがとう!

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