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どんなりんごを描きますか

あなたは、どんなふうにりんごを描きますか。

絵を描く時、「うまく描けない」と言うことがありますが、うまく描くってどういうことでしょうか。

たとえば、歌がすばらしくうまいのにどうしても日の目を見ない歌い手さんがいるように、「うまい」と「魅力がある」というのは同じようだけどきっと違うことだと思っています。
人のこころを揺さぶるということは、必ずしも「うまい」と一緒ではないと感じることがあるのです。

うまいってなんだろう。

魅力的とはどんな状態をいうのか。

わたしは、
美術の世界にはその謎がいっぱい詰まっているような気がしています。




様々な画家のりんごの絵をみつけました。
是非ご一緒にご鑑賞ください。

まずはパウル・クレーのりんごです。

「リンゴ一等賞」1934年

あはは。なんておおらかな絵なのでしょうか。
りんごといわれなければ
りんごとは思えないかもしれません。
こんなのひどいと思う人もいるでしょう。
これならわたしにも描けると言う人もいると思います。

わたしはこの絵を見た時、ぱっと心が開いたように思いました。
美術館でこの絵をみつけたら、絶対に素通りできません。
食い入るように見てしまいます。心が引き付けられます。うまいという作品ではないかもしれないけれど、とても魅力的です。

どうしてこのリンゴなの?
きっと画家であるクレーに対してそんな疑問も湧いてくるかもしれません。

よくみると、ほそいピンク色の線がこの物質の外側を囲んでいますが、このピンク色がけっこう大事なのかなと思えてきます。

この細さがいいのかな。もっと赤っぽいピンク色だったらどうだろう。
このピンク色がなかったらどんな感じだろう。

お化粧の時のアイラインのようだとも思えます。
ラインを加えることでどのように「変化する」かを楽しもうとしているかのようです。

そして加えることがよりしっくりくると選択したクレーは、描きたかったりんごを表現できたと感じたのではないでしょうか。

この作品を観ていると、
クレーがこの絵を気に入っているように感じるのです。



次はゴッホの描いたリンゴです。

「林檎の入った籠のある静物」クレラー・ミュラー美術館 1887年

私は最初「りんごの絵」と思いませんでした。タイトルをみてはじめてこれはりんごなのねと驚いたくらいです。ごつごつしていて、あまり良い出来ではないりんごにみえます。
いや、この作品のりんごは「黄金のりんご」なのかもしれません。

「黄金のりんご」とは様々な国の神話や民話の中で語られているりんごですが、幸運のシンボルだったり不老不死の源だったりと画家の作品にも大いにインスピレーションを与えた題材でした。

優しい光に包まれているこの果実は、もはやりんごでなくてもいいような気もしてきます。このここちよい光が意味あることに思えてきます。

ゴッホは光の中にある果実の存在を描きたかったのかもしれません。
そしてこの果実が実りや恵というものを象徴し、
画面いっぱいの光がその命あるものへの祝福をもたらしているように感じます。






カラヴァッジョの作品はいつみてもすごいなあと思います。
葡萄の(断然「葡萄」の文字が似合うと思いませんか)粒のつや、カゴの光、果実や葉それぞれの新鮮さと素材の違いをしっかりと描き分けています。

「果物籠」 アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)1596年~97年

カラヴァッジョは何度も逮捕、投獄された経験のある画家で有名ですが、それを改めて考えると彼の絵画における天才性を思わずにはいられません。

彼は実生活だけでなく、絵の中でも闇の部分を描き物議を醸した作品も多く、専門家の間では賛否両論でした。しかし、カラヴァッジェスキと呼ばれる多くの模倣者を生み出し、多大な影響を与えました。

カラヴァッジョは、「真実」を追求しました。
キリスト教の世界の「理想の美」などには気にもかけない勢いでした。その作品は不謹慎で冒涜的にすら感じられるほどであり、ある意味挑戦的でもありました。
この果実の絵も、ただの果物を盛ったカゴを描いたのではなく、「ヴァニタス」でもあるというのです。
ヴァニタス(vanitas)とは、ラテン語で「空虚」や「虚しさ」を意味します。いまあるもの、眼に見えているものは時間と共に無くなり、財産、知識、美などは、死という必ずだれにでも訪れるものの前には空しく儚いものだというキリスト教的教訓を静物画に反映させました。

この作品ではその暗示をまさに熟れた果実やその葉に表現し、新鮮な果実があったり、その逆のカサカサと音が聞こえそうなくらいに枯れた葉を描いているのです。
りんごの傷んだ表現などは、ヴァニタスの表現と共に人間の退廃をも表しているのだといいます。

カラヴァッジョのりんごは、彼が求めた「真実」であり、世の中に対する「挑戦」だったのだと考えるとその迫力の意味もまた違って見えてきます。



マティスのりんごです。
赤があふれていて、補色のみどりがまた赤をひきたてています。
ああやっぱりいいなあ、マティスの絵。

「緑の背景のテーブルの上のりんご」クライスラー美術館 1916年

りんごの入った台座はまったくの平面に描かれています。りんごは軽く立体感を感じはするものの、形は丸を描いただけのシンプルなもの。しかし色の効果でしょうか、だれもがりんごと思うのではないでしょうか。

マティスは言いました。
「人生に疲れを持っている人たちに不満を感じさせないような、純粋にして、本当に整った静かで人々に美しい休息を与える仕事をしたい」

たしかに、マティスの放つ色彩の楽園には「美しい休息」があります。
真の芸術にはそういう力があるのだと気づかせてくれます。




ジョージア・オキーフのりんごの絵を発見しました。
オキーフはりんごをこんな風に描くんだと驚きました。
みずみずしくて明るくて元気いっぱいです。

「リンゴ2:リンゴⅡ」ジョージア・オキーフ美術館(アメリカ)1920年

2枚の絵は視点を変えています。横から近づいてみている作品と、上から見ている作品。りんごののった皿までも描き、赤の対象となる色も効果的に生かしているように思います。

「青い皿の上のリンゴ」ジョージア・オキーフ美術館 1921年

オキーフといえば迫力のある花の絵を思い出す人も多いのではないでしょうか。のちに彼女の代表作となる約200点にも及ぶ花を主題とした抽象画シリーズ「フラワー・ペインティング」は1920年代なかば頃から制作をはじめました。このりんごの作品の作成時期とちょうど重なります。

オキーフは花や岩など自然なものをたくさん描きました。そういうものを描くことによって彼女の人生をシンプルに表したのだと言います。
オキーフの作品の色合いには透き通るはかなさがありながら、力強い深みもあるのが魅力ですが、このりんごは加えて、より生命力を感じ、生き生きとした作品に仕上がっています。



りんごの画家といえば、セザンヌです。
でもセザンヌにとって「りんご」はおいしそうだからとか果物を描きたくてというのではなく、絵画における挑戦に適材だったからだといいます。
有名な彼の言葉に「りんごでパリを驚かせたい」というものがあります。

「りんごと洋梨」メトロポリタン美術館 1891-92年

この作品のテーブルはルネサンス以降西洋絵画で取り入れられてきた一点透視法を使わずに描かれ、消失点がありません。

「かごのある静物」オルセー美術館 1888-90年

また、この作品は左のフタのついた壺は横からみた図、フタなしの壺は上からみたように描いています。複数の視点が一つの作品のなかに混在し絵を仕上げました。このことは後のキュビズムやナビ派などの流派に大きな影響を与えました。セザンヌはりんごを通して実験的な絵画を実現したのです。



ルネ・マグリットという画家もりんごをいろんな表現で描いています。
中でも私は、この作品がとても好きです。

「人の子」 個人蔵 1964年

マグリットは本当にたくさんの作品にりんごを描いています。
「人の子」は、マグリットが66歳の時に描きました。

彼はこの絵の説明として、「私たちはいつも私たちが見ることで隠れてしまうものを見たいと思っています。人は隠されたものや私たちが見ることが出来ない事象に関心をもちます。」と言っています。つまりはりんごを「見たいものを隠している象徴」として描いているのです。

顔を隠すようにえがかれたりんごの絵はインパクトがあり、謎めいています。背景にある曇り空をあわせると不気味な雰囲気さえ漂わせますが、不思議としゃれた作品にもみえるのは、この男性が紳士的であるからかもしれません。

顔を覆ったものはりんごでなくてもいいと考え、このほかにも鳥や花で顔面を覆った作品もあります。やはりそれらも非常にインパクトがあり、謎めいた演出にはとても効果的です。




最後は母の絵を紹介させてください。
母は、昨年末89歳で亡くなりましたが、
この絵は88歳の時に描きました。

母は絵を描くことが大好きで
最期まで、絵を描くことが生きがいでした。

りんごは好んでよく描いたモチーフの一つで
この絵などは大変気に入り、
施設に入ってからも部屋の表札に飾ったりして、
これをきっかけに話しかけてくださった人とお友達になったりしていたようです。

母は、写真のようにその被写体を描けるようになりたいと思っていました。それが「絵を描く」ことの最上級の出来だと信じていたのです。

母は、「絵がうまくなりたい」とよく言いました。たしかに母の絵は写真のようではありませんでしたが、そもそもわたしは、その「写真のような絵」という母の「うまい絵」の基準に不満でした。うまく絵が描けるというより、魅力的な絵を描く人ということのほうが素晴らしいのではないかと言いました。

母は言いました。
「うまいから魅力があるんでしょう?」

母は油絵の道具とイーゼルを持って毎週末絵の教室に通ってはたくさんの絵を描きましたが、毎年秋に開かれる区民による絵画展に出展する際、気に入った作品が無い。と嘆くのでした。
時間がなかったから、いい色が出せなかったからと「言い訳」を言っては結局絵の教室で描いた作品の中から選びだしたものに適当に筆を足して出すということを繰り返しました。
そして、その作品がただ会場に展示されているのを毎年観に行くだけだったのです。

わたしは母に言いました。絵の教室で描いた作品は練習作なのだから、展覧会に出す絵は他に挑戦してみたら、と。それに、以前に描いてひっぱりだしてきたような作品に後から筆をいれてもいい絵にはならないと思う、と。
わたしは母に辛口でした。えらそうにいっぱしの芸術論を語り、うまくなりたいならと母を諭しました。

母は、美術の専門学校で3年間勉強したわたしを「絵の先生」と言って、時に反発しながらもわたしの言うことに耳を傾けてくれました。

ある年、母は家の中で集められるもので静物画に取り組みました。本当は人物がいいとか、花は枯れちゃうからとかまたなんだかんだ言っていたので、どんなモチーフにしたのかなと思っていたのですが、母が選んだのはりんごでした。りんごとテーブルクロスと時計。

すごく良く描けたのよ!と嬉しそうに母が電話でいうので見に行きました。

すごい!すごくいいね!
わたしは手放しでほめまくりました。それは本当に力作だと思いました。特別なものは何も描いていませんが、魅力的な作品に仕上がっていました。

ね、いいでしょう?
満足気な母の笑顔。

その年の展覧会が楽しみになりました。

観に行ったらすごく良い場所に飾ってもらっていて、更に嬉しくなりました。奨励賞だったけど、初めての入賞でした。
よかった!よかったねー!



以前美術大学に通う友人が言っていたことを時々思い出します。
「写真みたいな絵が写真みたいだからすごいとは思わない。写真みたいに描けるということがすごいんじゃない。描きたい表現が思い通りに描けるということがすごいんだ。」

どんなふうに意識したら描きたい絵がかけるのか
どんなふうに努力したらなりたい自分になれるのか
それは本当にむずかしいことだけど、細切れにでもそれをめざして、
いつでもそのことを考え続けていたら道が開けるのではないでしょうか。


母は描きたいりんごが描けたのだと思います。

りんごは、母に挑戦と学びを与え、成長をも感じさせてくれました。
そして最後には、喜びをももたらしてくれたのです。

12月31日の命日に、母が描いたたくさんの絵を並べて眺めたいと思います。それを母への供養としたいと思っています。

あなたは、どんなふうにりんごを描きますか。

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