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推し活って本当に尊いの?

私は昨今の「推し活ブーム」に対して違和感を持っている。
世間の推し活に対するイメージは「人生を豊かにするもの!」などポジティブなものばかりアピールしているように見えるのだ。

「推し活やろうよキャンペーン」を見るたび、自身の推し活と世間の推し活のイメージとで乖離がありすぎて違和感を覚える。

今回は、なぜ私がこんなにも違和感を覚えるのか深掘ってみようと思う。



1.「推し活」は賞賛されるが、まだまだ「オタク」には冷たい現状

何かのファンである人、何かを熱狂的に応援している人達のことを数年前までは「オタク」と呼び時には「痛い存在」として扱われてきた。
私は物心ついた頃からオタクだったので、世間の冷たい目線を浴びないように本当は薄桜鬼の斎藤一が好きなのにAKBのまゆゆが好き!と誤魔化したり、とにかくオタクであることを隠して一般人のコスプレをする癖が付いてしまった。

それなのに、令和の今は何かに夢中になっている事を羨ましがられる。
「充実してていいですね〜」や「好きなものがあっていいな〜」など、つい数年まではマイナーな好きなものを話すと引かれていたのに賞賛される日が来るとは・・・

しかし、ここまで世間が受け入れてくれているならどんどん曝け出そう!と調子に乗ると火傷を負うのだ。

多分、世間の推し活のイメージは休日にコンサートに行ったり、推しのグッズを集めたりライトな物を想起するのだろう。
しかし、実際はコンサートのチケットの抽選券を得るためにアルバムを何十枚買ったり、推しのグッズを当てるために箱買いしたり・・・熱狂的になればなるほど一般的な倫理観とはズレた行為がセットになっている。(もちろんライトは推し活も存在するが)

世間が許容してきたからといって、具体的な推し活の内容を話すと大抵オタクではない人には「ヤバい人扱い」をされてしまうのだ。
この反応は推し活が広まる前の反応とかわらない。

つまり、「推し活」という行為は人生を充実させるものとして賞賛されるが、推し活をしている「オタク」に対する世間の目はまだまだ冷たい。


2.「好き」と「信仰」は表裏一体

「推し活で人生を楽しくしよう!」と言うメッセージを見るたび、強い違和感を覚える。

推しに対する「好き」の気持ちには複雑な感情が混ざり合っていて、理想を押し付けたくなる欲が止まらなかったり、見たくない裏側を知って落ち込んだり、SNSで解釈違いな感想を見てイライラしたり・・・
むしろ推しの存在によって気分の浮き沈みが激しくメンタルが安定しない。

メンタル安定しないからこそ、推しに触れてメンタルを安定させるという嫌なループが生まれているのだ。

しかし、推しの存在が自分を支える「柱」になる時もある。

「生きていてしんどい時、推しを見れば笑顔になれるし推しが精神安定剤になっている」
一瞬幸せそうに見えるが、自身のメンタルを「推し」という第三者に頼らないと安定しない状況はかなり依存に近い状態だと思う。

よく「推し活=宗教」と例えられるが、自分の支えになる存在を外部に委ねる行為は宗教そのものだろう。

この「好き」が信仰に近い感情に発展することは自分の価値観や判断軸を変えてしまうほど、かなり危険なものだと私は感じている。

推し活にはドロドロとした欲まみれな背景があるのに、キラキラした行為だけアピールしている事に違和感を感じるのだろう。


何かに熱狂的になりアドレナリンをドバドバ出しまくる体験は本当に楽しい。
推しのおかげで人生に「楽しい!」が増えているのは事実だし、たくさんの人に経験して欲しいと思う。

しかし「楽しい」の裏にある欲まみれな部分も許容される世界と、「好き」をコントロールできる理性を兼ね備えていて欲しいと思う。

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