見出し画像

食事って本当に面白い!

みなさん、食事は好きですか?私は好きです。

一食くらい抜いても平気なタイプの人も居ると思うんですが、私はその対極にあり、常に食事のことばかり考えています。朝の仕事が始まった頃から昼ごはん何食べようかなと思っているし、昼ごはんの最中に夕ごはんのことを考えていたりします。

特に外食が大好きです。食事が好き!というと作るのが好きなんだなと勘違いされることがあるのだけれど、私は特に作るのは好きじゃない。朝昼晩の食事を作ってはいるけれど、それは子どもや夫がいるからで、自分一人だったら酒とつまみで済ませても良いと思っている。

じゃあ一体、食事の何が好きなのか?と考えてみると、そこにある偶然が好きなんだと思う。

先日、久しぶりに外食をした。
小さい子供がいるし、新型コロナウイルスも流行しているのでなかなか外食の機会を持てなかった。久しぶりだし、ということで、ちょっと値の張るランチに行くことにした。

高いビルの最上階までエレベーターで上がると、飛行機に乗った時みたいに耳がツンとした。入店後、席に着くまでに長い回廊みたいな場所を歩いた。窓からは遥か彼方に東京駅やスカイツリーが見えた。回廊の途中にはタイルで花や鳥を象った絵画があり、私は鳥が好きなのでゆっくり眺めたかったが、案内役が早足で歩いていたので一瞬で絵の前を通り過ぎてしまった。

デザートまでしっかり食べ、食後のコーヒーを飲んでいると、隣の席のご婦人が、連れ合いの男性に帯状疱疹ワクチンについての質問をしているのが聞こえた。コロナのワクチンを打ってからどれくらい期間を空ければ打てるのかしら、とのこと。私が答えてあげたい、と思いながら会計を済ませて退店した。

外食が愉快なのは、そこに偶然が舞い込むからだ。
単に飯を食うだけなのに、高い回廊から遠い景色を眺めたり、絵画に描かれた鳥をちょっと良いなと思ったりするのは、明らかに楽しみとしては過剰である。窓から見える東京駅やスカイツリーも、タイルで出来た壁の絵も、別に見ても見なくてもどちらでも良くて、あくまで客であるこちらに楽しむかどうかは任されている。私は偶然それらに注目したが、隣の席のご婦人は全く別の楽しみ方をしていたかもしれない。

じゃあ、偶然が少ない外食が嫌いかというと、そんなことはない。
外食業界も新型コロナウイルスの流行で大きく変化し、最近はタブレットを導入する店が増えた。そもそも席に店員がやってこない。客はタブレットを操作し、タップでオーダーすると、ロボットが席までご飯を届けてくれる。会計もセルフレジだ。お札を機械に吸い込ませると、お釣りがジャラジャラ出てくる。誰とも会話せず、感染のリスクを極限まで下げて食事をすることができる。

私はあまり人と話すのが得意ではないので、ハレの日の気合の入った食事以外はなるべくコミュニケーションという名の摩擦が少ない方が良いと思っている。タブレットでオーダーすれば聞き取りミスも発生しないし、釣り銭は自動計算の方が間違いがない。ただ単に、食って、金を払い、店を出る。効率化されたクリーンな食事で好ましいと思う。

でも、それがつまらないという意見には強く同意する。
あえて引用はしないが、先日イタリアンチェーン店の注文様式についてTwitterで議論を巻き起こしたツイートがあり、”メニューに紐付けされた記号列を紙に書いてオーダーすることに寂しさを感じる”と言うような趣旨だった。

それは感染を防ぐために必要な処置である。わかる。そもそも人件費が高く、記号列を記入した紙を渡す形式になったのは合理的な流れである。わかる。サイゼは安くて美味いんだから文句を言うのはおかしい。まあわかる。聴覚障害がある人にとっては、この形式の方がむしろ困難が少ない。間違いなくそうだろう。

これらの意見たちは全くもって正しい。大正解だ。しかし、例え社会が向かおうとする流れが合理的であっても、それでも味気なく寂しいと思うことはあるし、理屈は感情を押し流したりはしない。

私が外食を愛しているのは、そこに予想外の要素が入り込む余地があるからだ。自分が作った食事を摂っていると早々に腹がいっぱいになってしまうことはないだろうか。あれは作っている最中からその味に予想がついており、何の裏切りもないからだと思う。

偶然や裏切りの要素がないと食事は面白くならない。そこに必要なのは他者の介入である。紙に記号列を書いてオーダーし、記号列に紐づけられたメニューが差し出されるのは明らかに偶然や裏切りから遠ざかる行為であり、寂しさを感じるのは理解できる。

偶然の要素が強い食事は、楽しむための枠が大きい。客は黙ってメニューを指さして注文することもできるし、店員におすすめを聞くこともできる。食事をテーブルまで持ってきてもらったら、会釈で済ませてもいいし、ありがとうと微笑むこともできる。会計が有人ならごちそうさまを言って退店しても良いし、黙ってドアを押し開けても良い。これらは全てどちらでもよく、客である我々に判断が委ねられている。

記号列に紐づけられ、紙やタブレットで行うオーダーや、ウェイター役のロボット、無人の自動釣り銭機を悪者扱いしたいわけじゃない。間違いが起きづらく、摩擦のない、クリーンな食事は私も好きだ。

でも、食事の楽しさは食事そのものだけにあるわけではない。思い出すのは、コミケなどの同人即売会のことだ。

夏のコミックマーケット、いわゆる夏コミは真夏の死ぬほど暑い時期に開催され、参加者はお目当ての本を手に入れるために炎天下で行列を作って並んだりする。ものにもよるが、通販でサクッと手に入れるという選択肢もあるわけで、それでもコミケなどの同人即売会に現地参加したがるのは、参加の動機が純粋に本を買うという行為だけではないからだと思う。

現地の参加者との一体感とか、サークル参加している人とのコミュニケーションとか、そういう付属物が沢山あるからこそ、通販ではなく現地参加を選ぶのではないか。
合理性だけで物事を選ぶことはできない。どんなに正しく見えても、人間は非合理的な選択をすることはある。食の楽しみは、純粋に美味いものを食うだけではなく、そういうところにもあるのではないかと私は思う。

Big Love…