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天敵彼女 (77)

 最初の印象は、いかにも真面目そうで隙の無い女性といった感じだった。

 向家さんと名乗るその人は、縁さんの秘書だ。毎朝ではないが、時々縁さんを迎えにうちに来ている。

 俺との接点は、インターホン越しに少し話をする位だった。いつもスーツをきっちり着こなして、長い髪をまとめ、メガネをかけていた。

 学生の俺からすれば、買い物以外で仕事モードの大人と接する機会自体が珍しく、いつもちゃんとしている秘書さんを密かにリスペクトしていた。

 だから、どうしてこうなったのか? 誰か教えてくれ。

 最初は、ただの食事会だった。俺達は、かまどで炊いた美味しいご飯や鍋、炉端焼きに舌鼓を打ちながら囲炉裏テーブルを囲んでいた。

 一応、この家には昔ながらの囲炉裏もあるのだが、床に直に座るのは大変なので、囲炉裏で料理をしたものをここで食べるようにしている。

 ちなみに、席順は父さんと縁さん、俺と奏が並んで座る中、秘書さんは俺達の隣に来た。

 この時点で、俺は人見知りモード全開だったので、最初は奏と秘書さんだけで話をしていた。

 秘書さんは、奏と話し始めると、途端に砕けた口調になった。この時点で、多少お酒も入っていた。俺は、二人の会話をただ聞いているだけだった。

 その内、奏が俺にも話を振るようになり、俺も少しずつ会話に加わった。

 それから数十分……俺は、さっきから秘書さんに絡まれている。目の前にいるのは、クールでいかにも仕事が出来そうないつもの姿とはかけ離れた、ただの酔っぱらいだ。

「私が可愛がってる子だから言うんじゃないんだけどね……あんたどうしてそんなにグズグズしてるの? 他の男に持っていかれてもいいの?」

「いえ、それは……俺は別に……」

「はっきりしなさいよぉ……こんな子、なかなか出会えないわよぉ……後悔しても遅いのよ」

「今は、そういう子と考えられないというか……ストーカー問題とか、色々な事が片付いてから、なし崩しじゃない感じで、お互いにしっかり話し合って……」

「分かってないわねぇ! 男と女が何を話し合うっていうの? 理屈じゃないのよ! 何言ってるのこの子は? スペックが高いだけに、こじらせ具合が惜しいわねぇ……ねぇ、奏! この子私に預ける気ない? 二か月で一人前のホス……男にしてみせるわよ」

 今、「ホス」って言ったよね? むしろ、「ホス」と(ト)言ったよね?

 未成年に何やらせようとしてるんだ? この人、ガチでヤバいんじゃないのか?

 さっきから、奏が秘書さんの暴走を止めようとしてくれているが、限界突破した俺はもう何も耳に入らなかった。

 俺は、つくづく自分の見る目のなさを嘆いた。いかにもお堅いイメージだ
ったこの人が、まさかこんなに豹変するとは……こんな事なら、秘書さんが近くに来た時点で避難するべきだった。改めて、女は怖いと言わざるを得ない。

 でも、分からない。どうしてこうなった? 確か、最初からこうじゃなかった。秘書さんは、お酒に強いのか、途中まではいくら飲んでも普段と変わらない感じだった。

 それがだんだん目が座って来て、メガネを外し、髪留めを外し、上着を脱いだ辺りで、何か変だなとさすがの俺も気付き始めた。

 俺は、秘書さんと物理的に距離をとろうとした。返事をする頻度を減らし、徐々に会話からフェードアウトしようとした。

 奏も何となく俺の意図を察してくれたのか、秘書さんに俺とは関係ない話題を振り、注意を逸らしてくれた。

「そう言えば、この前教えてくれた店すごく良かった。今度一緒に行こうよ」

「どの店?」

「ほら、可愛い小物がいっぱいある……」

「ああ、フェリの事?」

「そうそう、それ!」

 奏と秘書さんの会話が盛り上がり始めた。俺は、そうっと立ち上がり、外に出ようとした。

「ストーップ!」

「えっ?」

 俺は、誰かに手を掴まれ、振り返った。秘書さんだった。

「まだ、全然話してないでしょ? どこ行こうとしてるの?」

「えっ? ちょっと席を外してすぐ戻ってくるつもりです」

「そーんなこと言って、戻ってこないつもりでしょう?」

「そんな事ないです」

「いいから座って! 別に、お花を摘みに行くわけじゃないでしょう? そもそも、あなたもぞもぞしてないじゃない! 良いから座りなさいっ!」

「は、はい……」

 俺は、完全に捕獲されてしまった。奏に助けを求める視線を送ったが、秘書さんの後ろから奏が俺に手を合わせるのが見えた。

 秘書さんは、やたらと俺と奏の近況を知りたがった。偽恋人計画の事も知っているようで、やたらと鋭い質問が地味にメンタルを削って来た。

 とにかく、早くこの人を何とかしてくれ……俺は、もう一度すがるような視線を奏に向けた。

「ホラホラ、峻が困ってるよ? 向こう行こうか? お母さん達が呼んでるよ?」

「いや! 峻君と一緒がいい! 峻君の隣で飲むのぉ!」

「もう、何言って……きゃあ!」

 秘書さんが奏に抱きついた。まさに地獄絵図だ。

 こういう雰囲気が死ぬ程苦手な俺が固まっていると、秘書さんと目が合った。

「何、自分には関係ない顔してるの? あなたの事なのよ。ねぇ、しゅーん君の事、お姉さんに任せてみる気ない? 今のままじゃ、勿体ないわ! 奏はね、男に待たされるような子じゃない! そんなレベルじゃないのよ! こんなかわいい子、私が男なら放っておかないわよ? ねぇ、聞いてるの? 聞いてないわね……えいっ!」

 俺は、一瞬何が起こっているのか分からなかったが、ギリギリで秘書さんが俺に抱きつこうとしている事に気付いた。

「わあ、何してるんすか?」

 俺は、思わず後ろに飛びのいた。少し遅れて奏が秘書さんを押さえてくれているのが見えた。

「もう、樹利亜ちゃんステイッ!」

「なぁーにがステイよ。あんたたちのペースだと、あっという間に三十過ぎるわよ? 折角、十七の年に一緒にいるのよ? 何、かまどでご飯炊いてるの? もっとキラキラした思い出作れるのよ?」

「いいの……それでもいいの。私、ずっと待つつもりだから」

 奏が掴んでいた秘書さんの手を放した。少し頬が赤くなっている気がした。その一瞬の隙を付いて、秘書さんがまた俺に向かってきた。

「くぅううう、可愛いなぁ……あんた、これだけの子にこんなこと言わせて、何自分は関係ないみたいな顔してんのよ? いい加減、はっきりしなさいよっ!」

「ちょ、ちょっと! 何してんすか?」

 秘書さんが近い。しかも、後ろは壁だ。逃げ場はない。さっきから、変な圧を感じる。このままではやられると俺が身構えると、秘書さんが両手を広げた。

「こうなったら、私が無理矢理っ! うぐっ!」

 次の瞬間、秘書さんを奏が羽交い絞めにしているのが見えた。当然、秘書さんは暴れたが、奏が何か耳元で何やら囁くと動きを止めた。

(樹利亜ちゃん、これ以上は……ね?)

 奏の雰囲気が明らかに変わった。既に、例のやつがいつ発動してもおかしくない。

 俺は、目を見張った。奏さんが微笑んでいる。これは、ヘルズゲートが開き始めている証拠だ。

 このままでは大変ことになると、俺が身構えていると、秘書さんがすっと真顔になった。

「あら、ごめんなさい。ちょっと風にあたってくるわ」

「大丈夫? 樹利亜ちゃんがこんなに酔うなんて珍しいね」

「峻君とうまくいってるみたいで、嬉しくてねぇ……」

「そうなんだ……でも、ねっ! 分かってるよね?」

「う、うん……分かってるよぉ。彼の事、大事に思ってるんだねぇ?」

「もう……怒るよ」

「ごめんごめん。後は、若いお二人で、邪魔者は退散しまーす」

 ようやく嵐が過ぎ去った。

 俺は、おぼつかない足取りで歩き出した秘書さんを呆然と見送った。傍らには、心配そうな奏が付き添っている。

 何だかんだで、この二人は仲がいいのだろう。

「峻、大丈夫か?」

 父さんが心配そうに俺に声をかけた。縁さんも何だか申し訳なさそうだ。
俺は、内心の動揺を悟られないよう、話題を変えた。

「大丈夫だよ。ところで、樹利亜ちゃんって誰?」

「えっ? ああ、向家さんの名前だが、どうかしたのか?」

「別に、何でもないよ。ありがとう」

 かろうじてそう呟くと、俺は父さん達に背を向けた。

 DQNネームじゃねぇか! 俺は、一人でツッコミを入れると、天井を見上げため息をついた。

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