カント『実践理性批判』(1)読書メモ

中山元氏の解説に基づき、カント『実践理性批判』を学びます。

『 純粋理性批判』 では 認識 能力 が 批判 さ れ、『 実践理性 批判』 では 欲求 能力 が 批判 さ れる。 そして この よう に し て、「 二つ の 能力 の アプリオリ な 原理 が 発見され、それらの原理の使用の条件、範囲、限界に基づいて、こうした原理が規定されることになった。

『純粋理性批判』 では、 欲求 能力 は 快 と 不快 に かかわる 経験 的 な もの で ある ため に、 批判 の 対象 では ない とさ れ た が、 欲求 能力 が 人間 の 快 と 不快 に かかわら ず、人間 の 行動 を 指示 する 道徳的 な 原則 に かかわる とき には、 これ は 経験 的 な もの では なく、「 純粋 な」 理性 として、 人間 の ふるまう べき 方法 を 提示 する ので ある。

人間 が 認識 する 存在 で ある とき には、 人間 の 感性 が 触発 さ れる 必要 は ある が、 自分 の 自発的 な 能力 で 対象 を 認識 する。 これ は 純粋 な 能力で ある。 しかし 実践的 に ふるまう とき には、 人間 は 自分 の うち の 欲望 を 制御 する 意志 を 働かせる 必要 が ある。 この 意志 という もの は、 目的 を もつ もの で あり、この目的は経験的なものであらざるをえない。

言い換えると、思弁的な理性の批判の場合は、 認識 する 理性 が「 純粋 な」 もの で あり うる こと は 自明 の こと だっ た。 しかし 実践的 な 理性 が かかわる のは、 認識 能力 では なく、「 意志 を 規定 する 根拠 だけ」 で ある。 その とき に それ が「 純粋 な」 もの で ある か どう かを 判断 する 基準 は、 それ が 経験 的 な もの に 条件 づけ られ て いる か どう か という こと で ある。

理性 が「 それ だけで」 意識 を 規定 する のに 十分 な もの で あれ ば、 実践理性 は 純粋 な もので ある だろ う。 しかし「 経験 的 に 条件 づけ られ た 場合 に かぎっ て」 意志 を 規定 する もの で ある なら ば、 それ は 純粋 な もの では なく、 実践理性 は 純粋 実践理性では ない だろ う。 だから『 実践理性 批判』 を『 純粋 実践理性 批判』 と 題する こと は でき ない。 まず『 実践理性 批判』 と 題し て おい て、 理性 が 純粋 な もの で あるかどうかを明らかにすることが、この書物の重要な課題である。

実践理性 が 純粋 な もの で あり うる こと を 証明 する ため には、 人間 が 経験 的 な 条件 だけに 規定 さ れ て いる ので なく、 経験 的 な 条件 の もと でも 自由 な 意志 を もつこと、 そして 実践理性 は、 自分 の 感性 的 な 欲望 を 否定 し てでも、 みずから 定め た 法則 に したがう 自律 し た 能力 で ある こと を 証明 する 必要 が ある。

現象 の 世界 では 人間 は 自然 の 法則 の 原因性 に したがい ながら も、 叡智界 に 存在 する 主体 として は、 自由 の 原因性 の もと で、 意志 の 自由 を 行使 し て 行動 することができるのである。

行動 原理 と 命 法 を 比較 する と 二つ の 重要 な 違い が 確認 できる。 第一 に、 行動 原理 は 主観的 な 原理 で ある から、客観的 に 妥当 する こと が ない。 命 法 は、「 客観的 に 妥当 する もの で あり、 主観的 な 原則 として の 行動 原理 とは まったく 異なる」 もの で ある。

第二の違いは、意志への「強制」にある。行動 原理 は、 主体 が みずから の 欲望 によって 定め た もの で ある が、 命 法 は、 その 行動 原理 に したがう こと が 主体 にとって 必ずしも「 良い」 こと では ない ものである。

『道徳 の 形而上学』 に よる と、 上級 の 欲求 能力 とは、 理性 に 基づい た 欲求 能力 で あり、 下級 の 欲求 能力 は 感性 に 基づい た 欲求 能力 で ある。 感性 に 基づい た 下級 の欲求 能力 は、 欲望 と 呼ば れる。 この 欲望 は つねに、 快感 が 原因 と なっ て、 その 対象 の 実現 を 求める ので ある。 この 欲望 が 習慣 的 な もの と なる と、 心 の 傾きと 呼ば れる。 これ にたいして、 概念 に 基づい た 欲求 能力 は、「 その 行為 へと 規定 する 根拠 が 客体 の うち にでは なく、 それ 自体 において みいださ れる 場合 には、任意にふるまう能力と呼ばれる」。

動物的 な 選択 意志 は、「 ただ 心 の 傾き だけ によって 規定 さ れ うる もの で ある。 これ は 欲望 の まま に 選択 する ので 自由 では ない。これ にたいして 人間 の 選択 意志 は 自由 で あり衝動 によって たしかに 触発 さ れ は する が、 規定 さ れ は し ない ので ある。

逆にいえば。普遍的 な 法則 として 妥当 する 行動 原理 だけが、 実践的 な 法則 として 認め られる という こと で ある。

人間が自分の心の傾きにしたがうことは、現象の世界のさまざまな事物に規定 さ れ て いる という こと で あり、 そこ に 自由 は 存在 し ない と カント は 考える。 心 の 傾き から 独立 し て、 普遍的 な 法則 を 立てる 意志 だけが 自由 なので ある。この意志は、この実践理性は、叡智界に属する人間の叡智的な性格をおびているのである。

だから人間がほんとうに 自由 な 選択 意志 を もっ て いる か どう かを 判断 する には、 そうした 欲望 や 心 の 傾き や 習慣 を 否定 し ても、 自由 な 選択 を 行える か どう かを 問う 必要 が ある。

道徳的 な 定言 命 法 に したがう こと で、 人間 は 自分 の 意志 が 自由 で ある こと を 認識 する ので ある。 これ が「 道徳的 な 法則 は 自由の認識根拠なのである」ということである。

神 の 道具 で あれ、 欲望 の 道具 で あれ、 自分 の 意志 よりも ほか の もの に 服従 し て いる 者 は、 自由 で ある とは 言え ない。 だから道徳が可能であるためには、人間は自由でなければならない。これが「自由はたしかに道徳的な法則の存在根拠である」ということである。

道徳の定言命法の特徴
第一:この定式は仮言的な命法ではなく、定言命法である。それは「つねに
   ~せよ」ということからも明らかである。

第二:この定式は必然性を含む。「つねに」そのようにしなければならない
   からである。

第三:この定式はアプリオリなものであり、いかなる経験にも左右されてい
   ない。

第四:この定式は不変的なものである。それはまず、自分の構想原理を「普
   遍的な法則を定める原理」として妥当するものとすることが求められ
   ているからである。さらに この 命令 は すべて の 理性的 な 存在 者
   に 妥当 する もの として 命じ られ て いる からで ある。 すべて の
   人 が この 命令 に したがう べき なので ある。

第五:この 命 法 は、 行為 の 内容 では なく、 その 形式 だけに 注目 し
   て いる。 行う 行為 が どの よう な 内容 の もの で あり、 どの よ
   う な 結果 を もたらす かは まったく無視して、その行為を支える行
   動原理が普遍的な法則となりうるものかどうかという形式だけを問題
   にしているからである。

だから 道徳的 な 法則 を 定める 意志 は、 この 他律 の 反対 の 意志 で あり、 自律 し た 意志 で ある。「 意志 の 自律 は、 すべての道徳法則の唯一の原理であり、道徳法則に適合した義務の唯一の原理でもある」のである。

すなわち二つのアスペクト を 持ち込ん で、 人間 が 叡智界 において 自由 で ある と 想定すれば、定言命法という道徳的な原則の根拠づけは可能であるが、それを実行するのは越権だということになる。

道徳的な法則が人間に意志の自由を認識させたのである。これは「純粋理性はそれだけで、すべての経験的なものから独立して、意志を規定することができる」ということ、すなわち純粋な理性は自律した自由な理性であるということである。この「自律によって理性は意志を行為へと規定する」のである。この事実は、人間が他者から教えられなくても道徳的な法則を意識していて、自由に行動できるという「理性の事実」として確定された。この自由は、『純粋理性批判』では実践的な自由と呼ばれたものである。

善と悪は、快適さや苦痛といった感覚の状態にかかわるものではない。人間の「行為の仕方」、「意志の行動原理」「人格」だけについて、善と悪を語ることができるのである。

人間は幸福を追求してもよいが、この追及は善悪の判断によって制限されるべきである。それは人間には高い使命があるからであり、その使命とは「恩寵の王国」と「目的の国」の実現であることは明らかだろう。

自由のカテゴリー表

一 量:主観的な自由の原理。これは行動原理、すなわち個人の意見にした
    がう客観的な原理。これは原理(準則)にしたがうアプリオリな客
    観的であるとともに主観的な自由の原理(法則)

二 性質:作為の実践的な規則(命令)不作為の実践的な規則(禁止)例外
     の実践的な規則(例外)

三 関係:人格性との関係、人格の状態との関係、ある人格と他の人格の状
     態との相互的な関係

四 様態:許されていることと許されていないこと、義務に適うことと義務
     に反すること、完全義務と不完全義務

もしも誰でも「自分の利益になると思えば勝手に嘘をついてもよいと考える世界があったとしよう」。そのときには「君は事物のこのような秩序に所属しているとすれば、この秩序に属することに、自分の意志で同意するだろうか」とカントは問い掛ける。だからこの範型の背後には、たんに形式的な法則であるだけではなく、ある重要な価値判断が存在しているのである。それはその法則が形式的に適用された場合には、もはや人が生きることを望まなくなるような世界は絶対に望ましくないという判断である。世界には秩序があり、その秩序は人間が道徳的な存在であるような望ましい秩序であるべきだと考えられているのである。

範型論の役割
第一:これを利用することで、実践理性の経験主義を防ぐことができる。経
   験主義とは、「善悪の実践的な概念を、たんなる経験の結果のうち
   に、いわゆる幸福のうちに置く」。

第二:この問い掛けは理性の神秘主義を防ぐために役立つ。

この経験主義と神秘主義を排した後、結論として判断力の合理主義が好ましいものとして提示される。「この合理主義は、純粋理性がそれだけで思考できるものである合法則性だけを、感性的な自然から取りだす。そしてそれとは反対に超感性的な自然のうちに持ち込むのは、自然法則一般の形式的な規則にしたがって、感性界における行為によって実際に示すことができるものだけ」にすることで、経験主義的な誤謬にも、神秘主義的な誤謬にも陥らないですむのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?