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ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ.『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂病』(21)読書メモ 

第四章 第五節 第二の肯定的課題

けれども、体制上の差異にとらわれて本性上の同一性を忘れてはならない。 基本的には、二つの極が 存在するのである。しかし、この二極を単にモル的組織体と分子的組織体との二元性として示さなけ ればならないとしたら、私たちはこうした示し方に満足することはできない。なぜなら、それ自身モ ル的組織体の備給でないような分子的組織体は存在しないからである。
 社会的機械の外部に存在する ような欲望機械は存在しない。欲望機械自身が、大きな規模ではもろもろの社会的機械を形成してい る。欲望機械が存在しなければ、社会的機械も存在しない。 欲望機械は小さい規模で社会的機械の中 に住み込んでいる。
 したがって、モル的なコードや公理系からなるブロック全体を横取りして、これ を再生産しないような、分子的連鎖は存在しない。 また、分子的連鎖の断片を含み、これらを封印し ていないようなブロックも存在しない。
 欲望の連続状態が社会的系列を通じて拡張されるか、あるい は、ひとつの社会的機械が自分の歯車機構の中に欲望機械の部品を含んでいるか、どちらかなのである。

【モル的に固まった状態と分子的に分裂する状態は、機械の在り方の二つの 極だけど、両者は二元論的、二者択一的な関係にあるわけではなく、モル状に固まっている機械にも分子 的な動きが認められるし、分子的にバラバラになっているように見える欲望機械もモル的組織に参与して いるということですね。つまり何が何でも、 モルを全部解体しないといけない、と言っているわけではな いんですね。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

私たちは、モル的と分子的を、ときには、シニフィアン的な構造化されたパラノイア的統合線と、機械的な逸した分裂症的逃走線として、あるいはまた倒錯的な再領土化の軌跡と、分裂症的な脱領土 化の運動として対立させてきた。 またときには逆に、等しく社会的な給の二つの大きな型として対 立させてきた。
 一方は反動的、ファシスト的傾向をもつ定住的な一対一対応の備給であり、 他方は革 命的傾向をもつ遊牧的な多義的な備給である。 「私たちは永遠に劣等人種に属している。」「私は獣だ、 黒人だ。」「私たちはみんなドイツのユダヤ人だ。」 実際こうした分裂気質の表明においては、歴史的 社会野が備給されているが、これはパラノイア的公式においても備給される。
 「私はあなたたちの同 族だ。私たちは同じ出自だ。 私は純粋なアーリア人であり、永遠に優等人種に属している......。」 そ して、無意識のリビドー備給の観点からすれば、一方の公式から他方の公式へのあらゆる振子運動が 可能である。 どうして、こんなことが可能なのか。
 分裂症的逃走は分子的散逸とともにありながら、 どうして、パラノイア的なものと同じほど強力な決定的備給を形成しうるのか。 また、 なぜ、二つの 極に対応する社会的備給の二つの型が存在するのか。それは、いたるところにモル的なもの、そして 分子的なものが存在するからである。
 つまり、この両者の離接は包含的な離接であり、分子的現象が 大集合に従属するか、それとも逆に大集合を自分に従属させるかという、従属の二つの方向に応じて、 これが変化するにすぎない。

【ドゥルーズ+ガタリは、自分たちの アイデンティティの優越性に固執する「ファシスト的パラノイア的」に対して、「分裂症的遊牧的」なも のを称揚しているように見えますが、ここではいずれの傾向とも、歴史的社会野における無意識へのリビ ドーの備給に由来しており、一方から他方へと揺れ動く可能性がある、ということです。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

ここで私たちは、分裂分析の第二命題を正確に述べることができる。それは、社会的諸備給において、集団または欲望の無意識的リビドー的備給と、階級または利益の前意識的備給とを区別せよ、ということである。後者の備給は社会の大きな目標にかかわるとともに、有機体と集団的器官にかかわり、 これには配置された欠如の空胞も含まれる。
 ひとつの階級は、総合の体制によって定義される。つま り当の集合を規定する包括的接続、排他的離接、残滓的な連接の一状態によって定義されるのだ。ある階級に所属していることは、生産あるいは反生産においてどんな役割を果し、登記においてどんな 場所を占め、主体にどんな分け前が戻ってくるかにかかわる。したがって階級の前意識的な利益それ 体は 流れの採取、コードの離脱、主体的な残滓や収入にかかわる。

【「第二命題は、「集団」もしくは「欲望」のレベルで働く 「無意識的 inconscient」 リビドー的な備給と、 「階級」または「利益」のレベルで働く 「前意識的 」 備給の区別に関わっているわけですね。 「欲望 désir」が個人の身体レベルで働く無意識的なものであるのに対し、 「利益 」 が社会的・歴史 的に組織化され、ある程度モル的に実体化しているというのは分かりますね。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

逆備給とは、新しい社会的目標、新しい器官や手段、社会的総合の新しい可能性との関係において、 それ自身の利益を創造するものである。こうして、別の階級は、党という装置によって代表(表象 される必然性が生じてくる。
 党は、そのための目的や手段を定め、前意識の領域において革命的切断 を(例えば、レーニン主義的切断を)操作するのだ。したがって階級または利益の前意識的傷給とい うこの領域において、何が反動的あるいは改良的であるか、または何が革命的であるか区別すること はやさしい。

【支配階級でない方は、実体的な「利益」を基にしてモル的に組織化されて いるわけではないので、「党」によって 「代表=表象 」される必要がある。 「党」は、希望の流 れを変え、新しい「総合」の可能性を生み出すことで、新しい「利益」を現出させるうえで指導的役割を 果たさねばならない。
 それがレーニン主義で言うところの革命的切断です。 この捉え方の場合、普通のマ ルクス主義のように、支配階級/被支配階級の双方にとって物質的な利益が確定していて、それに基づい て不可避的に階級闘争が生じるというのではなくて、後者にとっては、表象のポリティクス、 しかも決断 主義的なニュアンスを帯びたポリティクスが必要になるわけです。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

ところが、この状況は、次のような問題に対して何ら十分な解答を与えるものではない。 革命におい 客観的利益をもつ、またはもつはずの多くの人びとが、 なぜ反動的な型の前意識的給を保存する のか。 もっと稀なことではあるが、客観的に反動的な利益をもつ若干の人びとが、いかにして、革命 的な前意識的備給を働かすことになるのか。 ある場合には、立派な正しい見解としての、 正義への渇 望とか、正しいイデオロギー的立場とかを引き合いに出し、別の場合には、イデオロギー的欺瞞やご まかしの成果、盲目を引き合いに出すべきなのか。
 革命家たちがしばしば忘れ、あるいは認めようと しないことは、ひとが革命を欲しこれを行うのは欲望によってであって、義務によってではないということである。

【革命する動機が「恋」ではなくて「欲望」だというのは当たり前の話ですね。ただ、普通のマルクス主義者ならひとまとめにしたものが利益だ、ぐらいの雑な捉え方しかしていない、というより「欲望」について本格的に考えていないのですが、ドゥルーズたちは、前意識/無意識の違いに対応させて「利益/欲望」をはっきりと分けて考えます。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

他の場合と同じく、ここでも、イデオロギーという概念は、真の問題を隠してしまう最悪の概念であ り、いつも組織論的性格のものにすぎない。 ライヒが「なぜ、大衆はファシズムを望んだのか」とい うきわめて深い問題を提起したときにさえ、彼が、 イデオロギー的なもの、主観的なもの、非合理的 なもの、否定的なもの、抑止されたものといった概念を援用しながら答えることで満足してしまった のは、彼がもろもろの派生的な概念のとりこになっていたからである。
 こういう派生的な概念によっ て、彼が夢みていた唯物論的精神医学を彼は実現しそこねたのだ。これらの概念は、どんなふうに欲 が下部構造の部分をなしているのか、理解することを許さず、彼を客観的なものと主観的なものの 二元性の中に閉じこめることになった(これ以降、精神分析は、イデオロギーによって規定される主 観的なものの分析に逆戻りすることになった。

【ここではライヒに対して厳しいですね。イデオロギー論の問題点は、結局、[下部構造―客観―物質/ 上部構造主観君識] の二元論によって、唯物論にとって不利な事態を隠蔽していることです。 唯物論 自体は正しい、人々が革命に立ち上がらないのは意識がイデオロギーに囚われているだけだ、という言い 方で説明したことにしても何にもならない、ということですね。そのイデオロギーがどうやって生まれて、 物質的な生産関係を超えた威力を発揮するのかまで説明しないと、肝心な疑問は解消しない。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

つまり、ある集団は階級の利害とその前意識的備給の観点からは革命的でありうるが、しかしその リビドー備給の観点からは革命的ではありえず、ファシズム的警察的なままのことさえある。現実に 革命的な前意識的利害は、必ずしも同じ性質の無意識的備給を含んではいない。 利害にかかわる装置 は、決して欲望の機械として働くわけではない。
 前意識の水準にある革命的集団は、たとえ権力を獲得したとしても、この権力そのものが、欲望的 生産を隷属させ粉砕し続ける権力形態に結びついているかぎりにおいては、隷属集団にとどまる。こ の集団は前意識においては革命的であるのに、この同じ集団がすでに隷属集団の無意識的性格のすべ てを示すことになる。

【「権力形態」と「欲望的生産」の間には無意識レベルでの結び付きがあるので、既成の権力形態」を 維持したままそれを奪取しようとすると、その権力形態に対応した欲望生産の在り方を温存させることに なります。「ここでいう「隷属集団 」 というのは、被支配階級ということではなくて、体制に従属している、体制の枠内で主体化してしまって、そこから抜け出せない、という意味でしょう。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

それゆえ分裂分析の課題は、 社会野に対する無意識的欲望のもろもろの備給に到達することである。 この備給は、利益の前意識的備給から区別され、これに対立するばかりではなくて、対立の様相をと りながらもこの備給と共存するのである。
 世代間の争いでは、老人たちが、最大の悪意をこめて若者 たちを非難するのが聞かれる。若者は、自分の利益(仕事、貯蓄、きちんとした結婚)よりも、自分 の欲望 (自動車、信用買い、借金、男女交際)を第一にしている、と。
 ところが、 他人にはむきだし の欲望とみえるものの中にも、 やはり欲望と利益の複雑な絡みがあり、 明白な反動的形態やあいまい な革命的形態の分ち難い混合がある。 状況は、 まったく混沌としている。
 集団あるいは個人の次元で、 分裂分析が社会野のリビドー備給を解明するために使用しうるものは、ただ指標ーーそれも機械的な もろもろの指標 ーーでしかないように思われる。
 ところで、この観点からいえば、こうした指標とな るものは性愛である。 革命的な能力は、個人や集団をかきたてる性的欲動の対象や目標や源泉によっ て制定されるということではまったくない。たしかに、 性愛が「汚ならしいささやかな秘密」の枠の中に閉じこめられているかぎり、倒錯はもちろん性的解放でさえ、何らの特権的指標とはなりはしな い。
 秘密を公にし、公明正大にする権利を要求することもできよう。 秘密を消毒することさえ、また 科学的な精神分析的な仕方でその秘密を治療することもできる。しかし、むしろ欲望を殺してしま う恐れがでてくる。最も弾圧的な監獄よりも、さらに陰鬱な解放形態を欲望のために発明してしまい かねないのだ。 公にされるにしても、消毒されるにしても、秘密のカテゴリーから、つまりオイ ディプス的ナルシス的起源から性愛が引き離されない限り、こうなる恐れがある。

【革命を起こすには、社会野の様々な領域に無意識的な欲望を備給、 注入しないといけない。その際に、「利益」の関係も見ないといけない。「利益」と「欲望」が複雑に絡み 合っていて、 全ての既存の「利益」を廃棄できるというわけでもないし、ある人にとっては純粋な、囚わ れのない 「欲望」に見えるものも、別の人から見れば、「利益」への固執に見えることもある。 そもそも、 人間は何らかの「利益」を前提にしないと社会生活を営めない。 これも、左派の哲学的論争でよく取り上 げられるテーマです。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

なぜ芸術や科学がこんなに頼りになるのか、この世界においては、それに芸術家さえ、科学と芸術そのものさえ、きわめて強力に既成の主権に奉仕しているのだ(たとえ、融資の構造によるものでしかないとしても)。
 それは、芸術がそれ自身の偉大さ、それ自身の天才に到達すると、た ちまち芸術は脱コード化や脱領土化の連鎖を創造し、この連鎖が欲望機械を確立し作動させるからである。

【芸術は新しい欲望機械を立ち上げ、それによって脱コード化と脱領土化を促進する。 それは既存の社会 にとって脅威になるはずですが、資本主義機械はそれを自らの発展の原動力にする。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義」』より】

もちろん、こうした絵画の流れの脱コード化は、欲望機械を地平線に形成するこれらの分裂気質の逃走線は、古いコードの断片の中に再び戻され、あるいは新しいコードの中に、何よりもまず絵画に固 有の公理系の中に導かれる。
 この公理系は、もろもろの逃走を封じ込め、絵画全体が線と色の横断的関係に入る道を閉ざし、これを古代的な、または新しい領土性の上に折り重ねる (例えば、遠近法)。 だから脱領土化の運動は、残滓的、人工的、作為的でさえある領土性の裏面としてしか捉えられない ということは、まったく真実なのだ。 しかし少なくとも、何かが出現し、 それがコードを引き裂き、 シニフィアンを解体し、構造の下を通り、流れを交通させ、欲望の領域において切断を行う。つまり 突破口が現われたのだ。

【「絵画」が「絵画」として認識されるには一定のコードに従う必要があるけれど、そのコードが新しい タイプの絵画が生まれる制約にもなっている。 その古いコードの中に入り込んで、“絵画”という枠 組みを再編していくようなものが、新しい欲望機械を作動するわけですね。 無論、既にそこでは新しい 絵画を取り込もうとする再領土化の運動がすぐに起きるわけです。(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

しかしリビドーが、無意識の水準において、前意識の切断と同じ様式をもつ革命的切断を実現するた めには、このリビドーは、これらの新しい目標に対応する新しい社会的身体を備給するだけでは不 十 分なのだ。まさに、無意識と前意識という二つの水準は、同じ様式で作動しないのである。
 リビドー によって充実身体として備給される新しい社会体は、自律的な領土性として、みごとに作動するかも しれないが、この領土性は資本主義機械の中に捉えられ、その中の飛び地となり、その市場の範囲内 に局限される。というのも突然変異する資本の大きな流れは、自分の境界を押しひろげて新しい公理 をつけ加え、自分の拡大した境界の可動的な枠の内部に欲望を維持するからである。
 現実のリビド 的無意識的な革命的切断がなくても、前意識的な革命的切断は存在しうる。 あるいは、むしろ、もの ごとの順序は次のようになる。 まず現実のリビドー的革命的切断があり、 次に、この切断が目標と利 益の単純な革命的切断に滑り込み、最後に、この切断は、もっぱら特殊な再領土性を、特殊な身体を、 資本の充実身体の上に形成し直すのだ。 隷属集団が、革命的な主体集団から、たえず派生することになる。

【無意識的なリビドーが備給されるべき新しい「社会的身体」ーー 共産主義社会とかアナーキーとかーー が形成されるだけでは不十分だということです。
 形成されても、資本主義機械がそれを飛び地のような感じで取り込んでしまう。無意識的リビドーの流れが変わっても、 それが「利益」絡みの表面的なものに変質してしまう危険は常にある。冷戦時代にも、社会主義陣営の国 が資本主義の企業とちゃんと取引してお得意様になっているとか、社会主義国のおかげで軍需産業が潤っ ているとか、左翼系の文化産業の市場形成といったことは言われていました。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

歴史はいつでも集合と多数の同じ法則によって支配されてきた。 それでも分裂は、目標も原因ももた ない欲望によってしか、実在するに至ったことはない。 欲望は分裂の道を描き、分裂と一体をなすか らである。原因の秩序なしには不可能なものでありながら、分裂が現実的なものとなるのは、別の秩 序に属する何かを介してなのだ。
 この何かとは、 〈欲望〉であり、つまり欲望砂漠であり、革命的欲望の備給である。 そしてまさに、これが資本主義を掘り崩すのである。革命はどこからくるのか、 またどんな形態をとって、搾取される大衆の中にやってくるのか。それは死のようなものだ。いつな のか、どこなのか。それは脱コード化し脱領土化した、ある流れであり、あまりにも遠くに流れ、あ まりにも微細に切断して、資本主義の公理系を逃れてゆく。
 それは、 ひとりのカストロ、 ひとりのア ラブ人、 ひとりのブラック・パンサー、地平線上の中国人なのか。ある六八年五月、工場の煙突の上に修行僧のようにじっと立つ内部の毛沢東主義者なのか。 既存の裂け目をふさぐために、いつもひと つの会理をつけ加えること。 ファシストの連隊長たちは、毛沢東を読み始める。もう罠にははまらな い。 カストロは、カストロ自身にとってさえ不可能になった。もろもろの空虚は孤立し、ゲットーが 作られる。 ひとは労働組合に助けを求める。 「抑止」の最も陰険な諸形態を発明する。 利益の抑制を 強化する。 欲望の新しい人はどこから起きるのか。


ここまで私たちを読んできた人びとは、おそらく私たちに多くの非難を向けたがっているかもしれな い。すなわち、芸術のさらに科学の純粋な潜在性をあまりに信じていること。階級と階級闘争の を否定し、あるいは最小にしていること。 欲望の非合理主義のために戦っていること。革命家と 分裂者を同一視していること。周知の、あまりにも周知のこれらすべての罠にはまっていること。 等々。
 これ誤った読み方であって、私たちは誤った読み方と、まったく読まないとでは、どちらが よいのか分らない。また確かに、私たちが考えたことのない。 もっと重大な別の非難も存在する。
 し かし、先ほどの非難に対しては、私たちは第一にこういいたい。芸術と科学は、他の何ものでもなく 革命的潜在性をもっている。必然的に専門家たちのみが用いるシニフィアンやシニフィエの観点から、 芸術と科学が何を意味しているのかを問題とすることをやめればやめるほど、この潜在性はそれだけはっきり現われる。
 まさに芸術と科学とは、ますます脱コード化され脱領土化された流れを社会体の 中に交通させる。 これらの流れは、すべてのひとに感じられるようになり、社会的公理系がしだいに 複雑化するように、もっと飽和するようにうながすのだ。
 こうしてついには、芸術家も科学者も、客 観的な革命的状況に合流する決心がついて、〈国家〉の権威的な計画に逆らうのだ。〈国家〉は、本質 的に無能であり、とりわけ去勢するものである(というのも 〈国家〉は、まさに芸術的なオイディプ ス、まさに科学的なオイディプスを強制するものだから)。
 第二に、私たちは、階級や利益の前意識 的備給の重要性を少しも過小評価していない。 これらの備給は、下部構造そのものに根拠をもってい るのだ。むしろ私たちは、これらの前意識的備給を重要なものとみなしている。 前意識的備給は下部 構造の中で、別の本性をもつリビドー備給の指標となるから、なおさら重要なのだ。もともと、この ようなリビドー備給は、前意識的備給と和解し、あるいは対立しうるものである。

【ここで改めて芸術と科学が革命において果たすべき役割を強調していますね。 精神医学・精神分析、文 芸・芸術批評、文化人類学の知見を動員して、「欲望」とその公理系についてかなりしつこく分析してき たのは、芸術や科学による無意識レベルでの欲望機械の作動の可能性を探るためでもあったのでしょう。
 「欲望」が何によって動いているのか解明でき、芸術や科学がそのメカニズムを動かせるとすれば、そこ に革命への鍵があるかもしれない。それに加えて、利益や階級といった前意識的要素が、無意識レベルで のリビドーの備給と相互に影響を与え合っていることも念頭に置いていることを念押ししていますね。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】

分裂分析の否定的かつ肯定的な課題を全体として見た場合、分裂分析と精神分析との対立は、結局何 を意味するのか。私たちは、いつも二種類の無意識を、あるいは無意識の二つの解釈を対立させてき た。
 一方は分裂分析的、 他方は精神分析的、一方は分裂症的、 他方は神経症的オイディプス的、一 方は抽象的で非具象的、 他方は想像的、また一方は現実的に具体的、 他方は象徴的、一方は機械的、 他方は構造的、一方は分子的、 ミクロ心理的、 ミクロ論理的、 他方はモル的あるいは統計学的、一方 は唯物的、 他方はイデオロギー的、一方は生産的、 他方は表現的。

【分裂分析が、機械の現実的な分子的運動に注目するのに対して、精神分析は、構造を介して各人の心を 象徴的に解釈しようとするわけですね。
(仲正昌樹『アンチ・オイディプス入門講義』より)】





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