ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』 読書メモ(14)
8 1874年ーーーヌーヴェル三編、あるいは「何が起きたのか?」
ヌーヴェルその三、ピエレット・フルーティオー作『深淵と望遠鏡』、1976年
・大小、程度のあれ、 とにかく たがい に 接近 し たり、 距離 を おい たり する 切片 が ある。 これら の 切片 は 深淵 を、 つまり 一種 の ブラック・ホールを取り囲んでいるように見える。それぞれの切片上に二通りの監視人がいる。〈近くを見る者〉と〈遠くを見る者〉。
彼らが監視しているのは、いずれも深淵に起きるさまざまな運動や圧力、違反や暴動や反逆である。二通りの監視人のあいだには大きな差異が認められるのだ。
〈近くを見る者〉はふつうの望遠鏡をもっている。彼らは深淵をのぞきこんで、巨大な独房や二項的に分断された建物の輪郭を、あるいは一般に二分状態の輪郭を見てとり、「教室や兵舎や公団住宅、さらに飛行機から見下ろした国土」など、はっきり境界の定まった切片の輪郭をながめている。
・〈遠くを見る者〉とその望遠鏡。
彼らはまさにその両義性によって差異を示すのだ。彼らの数はきわめて少ない。せいぜい一つの切片上に一人いるだけだ。彼らは精密で複雑な望遠鏡をもっている。(中略)彼らの目に映るのは、細部のまた細部、「可能性の立体交差」、いつのまにか周縁部分に起こる微小な運動、輪郭の定まる以前にあらかた姿を現す線や波動、そして「不規則な動きを見せる切片」など、いずれもミクロな切片性である。
・〈遠くを見る者〉の立場が両義 的 だ という のは、 こういう こと だ。 つまり、 彼ら は 深淵 の 中 に、〈 近く を 見る 者〉 には 見え ない、 軽微このうえないミクロの違反行為を見破ることができる。しかし彼らは、切り取るための望遠鏡が、一見したところ幾何学的正義のようでありながら、実は被害をもたらすということも認めているのだ。
・放浪の線と習慣の線が重なる。そこで 子供 は、 二本 の 線 の うち いずれ に 帰属 する とも いえ ない こと を おこない、 すでに失ったはずの〈何か〉に出会う(何が起きたの?)。あるいは跳びはね、手を叩き、微小で目にもとまらぬ運動と化す(・・・・・)。
要するに、それだけでもすでに複雑な逃走線が、それぞれの特異性とともに出現するのである。しかし独自の切片をともなうモル状、あるいは習慣の線も忘れてはならない。そして両者のあいだを(?)分子状の線が走り、その量子によって、他の線のうちいずれかに傾斜していく。
・二人 が 別れ て しまっ た こと で、 ますます 強く 共有 さ れる 逃走 線。 あるいは その 逆 の状態を示す逃走線。そこでは二人のうちどちらも相手にとっての地下潜行者になれるし、もはや何一つ重要ではなくなっただけに、なおさら見事な分身となる。そしてまたすべてやり直すことができるのだ。
二人とも破滅したとはいえ、それは二人が互いに相手を破滅させた結果ではないからである。追憶を経由するものは何もなく、すべてが複数の線の上に、そのあいだに、すべての線を、一つの線ともう一つの線を知覚不可能にする接続詞の〈と〉et の世界に移ったのである。
分離 とも 結合 とも 異なる 逃走 線 は、 断念 や 諦観 とは 逆 の、 新た なる 是認のための絶えず引かれる。そこに生まれるのは新たな幸福だろうか。