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現象学と脳科学には親和性があるのか?

《「私」が「私」の「外」にある事物を認識する》という考え方は間違っていて、認識の内容は、あくまでも、脳の中のニューロンの状態から、自己組織的に生まれる、と脳科学者の茂木健一郎氏は主張する。

「私が、外のものを認識するのではなく、認識は、私の一部なのだ」と言うのですが、この命題を読んで、そのまま頭にすっきりとはいった人は、よほど頭のよい人か、あるいは、あまり物事を深く考えない人である、と述べている。

おこがましくも、頭のよい人とは、思うわけがないですが、この命題はフッサールの現象学的還元の概念に似ているなと直感的に感じた。直感的にですから、あまり物事を深く考えない人と言えますね。

茂木氏は、この命題の正しさを信じているのですが、現在、認識の問題に関わる神経科学者は、この命題を理解していないか、あるいは知っていても無視しているのである、と述べている。

茂木氏がなぜ信じているのかを以下に挙げます。

例えば、私が犬を見ているとする。私は、ああ、犬の白い毛に太陽の光が当たってとてもきれいだなあとか、犬の吐く息が白く見えるから、今日は寒いんだなとか思うとする。

ここで、私は、「犬」とか、「白い毛」とか、「白い息」などは、私の「外」にあらかじめあるものだと考えている。

そして、そのような私の「外」にあるものを、私が認識していると考える。私の「外」にある事象から伝わってきた物理的刺激に基づく私の脳の中での情報処理の結果が、私の認識であると考えるわけである。

 しかし、実際には、私が「外」にあると思っている「犬」、「白い毛」、「白い息」は、私の脳の中にあるニューロンの発火によって私の「中」に生じている表象に過ぎない。

したがって、「犬」という描像は、実際には私の「外」にあるのではなくて、私の一部なのである。すべては、私の脳の中のニューロンの発火によって生じている現象なのである。私が認識していることは、すべては、私のニューロンの発火に過ぎないのだ。

茂木健一郎. 脳とクオリア なぜ脳に心が生まれるのか (講談社学術文庫) . 講談社. Kindle 版.

この考え方は、フッサールの現象学の原理である、外にある「犬」、「白い毛」、「白い息」などの事象があるかどうかについてはいったん判断中止(エポケー)して、その事象を内面(脳)に取り込んで思考(ニューロンによる発火)するという手法と似ていると感じた。

脳科学的には、脳の中にニューロンが発火状態となったとき、その脳の持主の心に中でどのような認識が生じているかを、そのニューロンの発火状態のみから再現しなければならないとする。つまり、ニューロンの発火がどのようなパターンになっているかという情報以外は、何も仮定してはならないということになる。

これを、現象学的に言えば、思考(発火状態)するときは、事象の認識は、事象そのものから再現するということになる。

フッサールが「現象学的還元」という概念において訴えた考え方が述べられているので、それを次に記述します。

音楽は、クオリアの芸術である。音楽という芸術の起源を、その淘汰上の利点から説明しようとする試みは、本質をとらえていない。

例えば、バッハの「ゴールドベルク変奏曲」の中にあるクオリアの集合が、進化上それが有利だから生まれてきたという考え方ほど、ナンセンスなものはない。

進化論が音楽の起源について言えることは、せいぜい、それが、生存上の要求と両立可能であるということだけだ。クオリアの芸術である音楽の本質と、その淘汰上の意義は、まったく無関係なのだ。実際、このような視点こそ、フッサールがその「現象学的還元」という概念において訴えた考え方である。

同上

2024年5月15日に投稿した「心と脳」について哲学者と脳科学者の見解は?では、哲学と脳科学は敵対していることを記しましたが、今回は現象学と脳科学には親和性があるのではと思ったことを描きました。

元々数学者であったフッサールの当初の関心は、数学のみならず、諸学の基礎として論理学の諸概念、諸命題の意味とその起源に向けられていたから、科学との親和性が高いのは、当然だと思われる。

前述したように、ニューロンの発火がどのようなパターンになっているか以外は、一切何も仮定してはならないということは、これは実に厳しい条件だと言うのです。

例えば、脳科学的には、「われわれの感覚器官には、視覚、聴覚、味覚、触覚、臭覚という様相(モダリティ)の区別があり、それぞれの様相における感覚がもつクオリアは、まったく異なるカテゴリー(赤い、騒がしい、甘い、痛い、香ばしい)に属していると思われるが、ニューロン原理の下で心と脳の関係を説明する上では仮定してはならない」のです。

なぜならば、それぞれの感覚器官は、構造、変換過程は異なり、また、感覚器官がとらえる物理的刺激に性質も異なるが、それらがわれわれの感覚の様相の差の起源となっていると言えないからです。

例えば、視覚における物質的刺激は電磁波(波長3800~7700オングストローム)であり、聴覚における物理的刺激は音波(周波数20~16000ヘルツ)である。

だが、このような物理的刺激の性質が、私たちがものを「見る」時と、ものを「聞く」時の感覚に伴うクオリアの差を説明するわけではない。

なぜならば、いったん感覚器を通してニューロンの発火に変換されてしまった以上、私たちの認識の性質を決めるのは、あくまでもニューロンの発火なのであって、どのような物理的刺激が、そのニューロンの発火を引き起こしたかは、関係がないからである。

同上

ということは、ニューロンの発火の特性、および、それらがどのように相互依存関係にあるかということであって、ニューロンの発火と、外界からの刺激の間の関係ではないということになる。

その他、認識が、脳の中のニューロンの活動に結びついているものとして、「認識におけるマッハの原理」というものを、茂木氏は挙げている。

マッハとは、音速以上の速度単位として一般に知られている科学者でありかつ哲学者でもあるエルンスト・マッハのことである。何で、このマッハが認識の原理に関係してくるかということに興味深々だったので、この著を読む動機となった。

アインシュタインは、マッハの議論から重要なインスピレーションを得たのでは言われており、マッハの「力学の原理」で述べられている考え方を「マッハの原理」と名づけたのは彼である。

まず、マッハの原理そのものは、次のようなことである。

《マッハの原理=ある物体の質量は、その物体のまわりのすべての物体との関係で決まる。他に何もない空間の中では、ある物体の質量には、何も関係ない。》

同上

この物体をニューロンと置換えたのが「認識におけるマッハの原理」となるというのである。

《認識におけるマッハの原理=認識において、あるニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される》

同上

さらに、マッハの原理の後半部に対応して次も含まれる。

《ニューロンは、他のニューロンとの関係においてのみある役割を持つのであって、単独で存在するニューロンには意味がない》

同上

たとえば、あるニューロンが発火した時に、「カエル」という認識が心の中に引き起こすのは、このニューロンが脳の中の他のすべてのニューロンとの関係において、そのような立場であるからである、と言う。

つまり、カエル・ニューロンは、脳の中の他のニューロンとの関係性の中に置かれているからこそカエル・ニューロンなのであり、単独に切り離されたニューロンに、何も関係ない、というわけです。

「マッハの原理」は、正しいし、深淵なのだが、そのままではあまりにラジカルなため、科学的理論に結びつかない。アインシュタインは、インパクトのある理論をつくるために、妥協と中庸の道をとって相対性理論を構築した。

「認識におけるマッハの原理」も同様に、あまりにもラジカルで、実験データとの接続ができない、と茂木氏は述べている。

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