勢力尚雅共著『経験論から言語哲学へ』に基づいて、ウィリアム・ジェイムズの哲学の「純粋経験」について学びます。
ジェイムズの父親は、神秘主義者スヴェーデンボリの研究家だった。ジェイムズは「純粋経験」という概念を生み出しており、西田幾多郎に影響を与えた。
われわれの経験とは、どのような洞察なのだろうか。
「純粋経験」とは、その経験によって何かを知るという意識にもなるが、反対に知られる内容にもなります。これは主観と客観が未分の状態にあるという西田の純粋経験の概念と同様となる。
デカルト以来の西洋哲学の歴史において、人間の認識や経験とはつねに思考する自我と自我の外なる世界との何らかの特殊な関係、つまり「主観と客観との認識関係」であると見なされてきた。
しかし、この特別の関係は、そもそもいかなる意味での関係であるのか。
このジェイムズの考え方は、「主観ー客観」一致することはないと唱えているフッサール現象学に類似するところがあるように思える。
ジェイムズは、人間の経験が超空間的・超時間的な出来事であることを否定する。われわれの経験は、その成立において自他という二つの対立極をもつ、関係的な出来事ではない。経験はそれ自体として単独で見る限り、具体的・個別的な「質の感受」という単一の出来事である。
主観ー客観の区別という対立軸はなく、あるのはそれぞれの経験に属するその経験に固有の質的内実だけであり、経験そのものについての反省や意識化に先立って、それ自身で存在するものであるから「純粋経験」と呼んでいる。
一方、戸島喜代志によると、西田の「純粋経験」を、次のように説明している。
ベルクソンとジェイムズの関係を平賀裕貴氏は次のように述べている。(ジェイムズがベルクソンに『宗教的経験の諸相』を贈呈したことで、ベルクソンの返礼の書簡を引用していますが、ここでは省略します。)
ベルクソンは、ジェイムズの著作に触発されて、神秘主義に関心を抱くようになった、と平賀氏は叙述しています。