見出し画像

ウィリアム・ジェイムズの哲学について

勢力尚雅共著『経験論から言語哲学へ』に基づいて、ウィリアム・ジェイムズの哲学の「純粋経験」について学びます。

ジェイムズの父親は、神秘主義者スヴェーデンボリの研究家だった。ジェイムズは「純粋経験」という概念を生み出しており、西田幾多郎に影響を与えた。

われわれの経験とは、どのような洞察なのだろうか。

それは流動変化する 「純粋経験」 の宇宙についての洞察、つまり、混乱が生む経験の流動性、あるいは異種の経験が結ばれあう の経験についての洞察である。

ジェイムズは、「直接に経験される要素」を「 純粋経験」 と呼び、それがどんな経験であれ、 経験される のは排除せずに「実在的なもの」 とみなす根本的な経験論を企てる。

たとえば、心霊現象や啓示体験といった、一般性に欠け、言語化しがたい経験であっても、その体験を切り捨てたり、 「超自然的」などとレッテルを貼ったり、習慣的な連鎖の生成といった説明に置き換えたりすることなく、そのような宗教的な体験にも、それと連接する経験と「完全 に平等な権利」を認め、それらを等しく 「純粋経験」 という名の 「実在」 とみなし、あらゆる生き生きとした純粋経験を相互に結びつける経験の において生じている事態を扱うこと。 それが、「ふつうの経験論」 とは異なる 「根本的経験論」 の立場である。

『経験論から言語哲学へ』P149

「純粋経験」とは、その経験によって何かを知るという意識にもなるが、反対に知られる内容にもなります。これは主観と客観が未分の状態にあるという西田の純粋経験の概念と同様となる。

デカルト以来の西洋哲学の歴史において、人間の認識や経験とはつねに思考する自我と自我の外なる世界との何らかの特殊な関係、つまり「主観と客観との認識関係」であると見なされてきた。

しかし、この特別の関係は、そもそもいかなる意味での関係であるのか。

当然のことながら、主観と客観との関係は、普通の事物が示す空間的・時間的な距離をもった関係ではない。そうした時空的関係は客観の「なか」で、もろもろの事物どうしの間で生じていることであり、主観はその世界の「外」に立っている。しかし、時空的でないにもかかわらず、外に独立に存在する自我が、(おそらくは無時間的・瞬間的に)世界を経験するとはどういうことなのか。ここにはきわめて根深い概念上の混乱、理論上の破綻あるとしか考えられない。

伊藤邦武. プラグマティズム入門 (ちくま新書) (p.68). 筑摩書房. Kindle 版.

このジェイムズの考え方は、「主観ー客観」一致することはないと唱えているフッサール現象学に類似するところがあるように思える。

ジェイムズは、人間の経験が超空間的・超時間的な出来事であることを否定する。われわれの経験は、その成立において自他という二つの対立極をもつ、関係的な出来事ではない。経験はそれ自体として単独で見る限り、具体的・個別的な「質の感受」という単一の出来事である。

主観ー客観の区別という対立軸はなく、あるのはそれぞれの経験に属するその経験に固有の質的内実だけであり、経験そのものについての反省や意識化に先立って、それ自身で存在するものであるから「純粋経験」と呼んでいる。

一方、戸島喜代志によると、西田の「純粋経験」を、次のように説明している。

西田によるなら、 「主もなく客もない」 厳密な統一のとれた持続的全体性である「純粋経 験」は、知覚、思惟、意志、情意のすべてを含んだ一即多、多即一へと 「自発自展」する。 すなわち 「純粋経験」には知性面もあるということ である。そして対象との一体化としてのベルクソンの「直観」も、対象 への単なる没入・固着としての「本能」との違いという意味でなら、対 象から距離をとる 「知性」の力を相補的に含むものでもあった。

『現代フランス哲学に学ぶ』P221

ベルクソンとジェイムズの関係を平賀裕貴氏は次のように述べている。(ジェイムズがベルクソンに『宗教的経験の諸相』を贈呈したことで、ベルクソンの返礼の書簡を引用していますが、ここでは省略します。)

もともとベルクソンは、ジェイムズの哲学に親近感を覚えていた。ここでも、返礼の書簡であるこ とは差し引いても、ジェイムズの著作に魅了された様がうかがえる。何がベルクソンを捉えたのか。 先述のように、ジェイムズは、合一経験の対象を日常感覚とは別次元にある「さらなるもの」と名 指していた。ここではベルクソンはこれを「高次の力 (puissance supérieure)」 と言い換えながら、合 一経験の性質を「独特の喜び (joie sui generis)」 の状態だと言う。宗教的感情を「喜び」とみなすこ と 自体は、取り立てて特別ではなく、古今の宗教家の記述や宗教研究者の指摘をみれば、宗教的経験で 「喜び」が感じられることは稀ではない。

平賀裕貴著『アンリ・ベルクソンの神秘主義』P62

ベルクソンは、ジェイムズの著作に触発されて、神秘主義に関心を抱くようになった、と平賀氏は叙述しています。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?