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ジル・ドゥルーズ著『ザッヘル=マゾッホ紹介』(18) 読書メモ

サディズムの超自我とマゾヒズムの自我

サディズムを出発点として、マゾヒズムの精神分析的発生を考察しようとするとき(この観点からすれば、フロイトによるふたつの解釈に大したちがいはない。

なぜなら第一の解釈が、還元しえないマゾヒズム的基底の存在をすでに認めている一方で、第二の解釈のほうは、一時的なマゾヒズムの存在を指摘しようとも、マゾヒズムの完全な性格はサディズムの反転によってはじめて獲得されるという主張を堅持するからである)、サディストには特異なしかたで超自我が欠けており、マゾヒストは逆に、サディズムを反転させる貪欲な超自我に苦しんでいるかのような印象を受けるだろう。

超自我とは異なる別の転回点をマゾヒズムに割りあてる別の諸解釈は、一方では(このふたつの解釈の)補完物として、他方では変異物としてみなすべきである。

なぜならそれは相変わらず、サディズムの反転と、サド=マゾヒズム的な実体という大局的な仮説を堅持しているからだ。

一番単純なのはそれゆえ、超自我の審級のもとでの自我に対する攻撃性ー反転という線を考究することであろう。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.135).

父 との 類似が指し示しているのは、性器的なセクシュアリティーと同時に、禁圧の動作主としての超自我なのであり、この双方が一挙に除去されるのである。

ここにこそユーモアがある。ユーモアとはアイロニーのたんなる反対物ではなく、独自の手段をもって進展するものなのだ。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.138).

サディズムは否定的なものから否定へと向かう。すなわち、たえず反覆される部分的な破壊過程としての否定的なものから、理性の全体的な理念としての否定へと向かうのである。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.139).

マゾヒズムは、否認から宙吊りへ向かう。すなわち、超自我の圧力から解放される過程としての否認から、理想を具体化するものとしての宙吊りへ向かうのである。

否認とは、ファルスの権利と所有を、口唇的な母へと転移させる質的過程である。

宙吊りが表象するのは、自我への新たな質の賦与であり、母のファルスを起点とする再生誕の理想である。

この両者のあいだで発達するのが、自我における想像力の質的関係であり、それは超自我における思考の量的関係とはきわめて異なるものだ。

なぜなら、否定が思考の行為であるように、否認とは想像力の反作用だからである。否認は超自我を斥け、超自我から独立する純粋で、自律的な理想自我を誕生させる力を母に授ける。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.140).

マゾヒズム とは、いかにして、だれによって超自我が破壊されるのか、そしてこの破壊からなにが生まれるのかを語る物語である。

聴衆がこの物語をよく理解できず、まさに超自我が死に瀕しているそのときに、超自我の勝利を信じてしまうことだってありうるだろう。

これはあらゆる物語にひそむ危険であり、物語がはらむ余白にひそむ危険である。

それゆえマゾヒストは、おのれの兆候と幻想のあらゆる力を駆使してこう述べるのだ。「昔むかし三人の女がいました・・・・」。

かれが語るのは、この女性たちの遂行する闘争であり、口唇的な母の勝利である。マゾヒスト自身、この古来の物語に、現代的な契約という精緻な行為でもって参与する。

だが、そうしてかれが獲得するのはきわめて奇妙な効果である。

つまり、マゾヒストは父との類似を、父の遺産であるセクシュアリティーを放棄するのだが、そのとき同時に、父のイメージをも斥けるのだ。

父のイメージとは、このセクシュアリティーを統御し、超自我の原理となる禁圧的な権威にほかならない。
ジル・ドゥルーズ. ザッヘル=マゾッホ紹介 冷淡なものと残酷なもの (河出文庫) (p.143).


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