ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ 『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂病』(6)読書メモ
第三章 未開人、野蛮人、文明人
第一節 登記する社会体
普遍的なものとは、最後に器官なき身体と欲望的生産として存在し、見たところ勝利者である資本主義によって規定される諸条件の下にあるとすれば、私たちはどうして無邪気に普遍的歴史を語ったり できる だろ う。 欲望 的 生産 は、 始め から 存在 し て いる もの でも ある。 社会的 な 生産 および 再生産 が 存在 し た とき から、 欲望 的 生産 はもう存在している。しかし、資本主義以前の社会的機械は、きわめて厳密な意味で、欲望内属していることも確かである。
したがって、資本主義は、自分をこの極限に駆りたてる運動を、いつも全力をふるって阻もうとする。資本主義 の 極限 において、 脱 領土 化 さ れ た 社会 体 は 器官 なき 身体 に 場 を 譲り、 脱 コード 化 さ れ た 流れ は、 欲望 的 生産 の 中 に 流れ込む のである。
つまり、私有財産と商品生産とがめぐりあうという遭遇である。ところが、この二つは、私有化と抽象化によって、きわめて 異なる 脱 コード 化 の 二 形態 として 現われ て くる もの だ。 あるいは、 私有財産 そのもの の 観点 から いえ ば、 資本家 たち の 所有 する 転換可能な富の流れと、ただ自分の労働力しか所有しない労働者たちの流れとの遭遇が必要であった。
ところが一方、資本主義が普遍的歴史の条件と可能性を規定するということが真実であるとすれば、それは資本主義が本質的に自分自身の極限、つまり自分自身の破壊に到達するものであるからである。
要するに、 普遍 史 は、 単に 回顧 的 な もの では なく、 偶発 的 な もの、 特異 な もの、 皮肉 な もの、 批判的なものである。
土地 は 生産 の 要素 で あり、 所有 の 結果 として 存在 する が、 大地 は、 生み出さ れる こと なく、 始め から 存在 する大いなる鬱積であり、土地の共同的な所有と使用を条件づける生産よりも上位の要素である。土地という表面に、生産のあらゆる過程が登記され、労働のもろもろの対象、手段、力が登録され、生産の代行者や生産物が分配される。
したがって大地機械は、社会体の最初の形態であり、原始的登記の機械であり社会野を蔽うメガマシンである。大地機械は、もろもろの技術機械と同じものではない。技術 機械 は、 手動 的 と いわ れる よう な 最も 単純 な 形態 において も、 すでに、 作動 し 伝達 し あるいは 動力 として 働き さえも する非人間的な要素を含んでいる。
この要素は、人間の力を拡張し、ある意味で人間を解放する。これとは逆に、社会的機械は人間を部品として扱う。たとえ、人間を彼らの使う機械とともに考察し、作動、伝達、動力のあらゆる段階において、彼らをひとつの制度的モデルの中に統合し内部化するとしても。こうして社会的機械は記憶を形成することになる。
原始的大地機械は、不動の動力である大地 とともに、 すでに 社会的 機械 あるいは メガ マシン で あり、 生産 の 流れ、 生産手段 の 流れ、 生産者 と 消費者 の 流れ を コード 化 する。〈大地〉の女神の充実身体は、その上で、耕作可能な種、農業用具そして人間の諸器官を結合するのだ。
私たちの現代社会は、逆に、もろもろの器官の大々的な私有化から始まったのであるが、これ は、 抽象化 し た 流れ の 脱 コード 化 に 対応 し て いる。 私有 化 さ れ て 社会 野 の 外 に おか れる こと に なる 最初 の 器官 は、 肛門 で あっ た。まさに肛門が私有化にモデルを提供したのと同時に、貨幣は、流れの抽象化の新たな状態を表現していたのである。このことによって精神分析が貨幣経済の肛門的性格を指摘してきたことは、相対的に真実なのだ。
【肛門が私有化のモデルの意味:フロイトの精神分析で、人間の発達で、口唇期と男根期の間に肛門期という時期を設定しています。肛門にリビドーが集中的に作用する時期、子供が自分の糞便に関心を持つ時期であるとともにトイレット・トレーニングを受ける時期であり、この時期に無理な躾の影響で便を溜める癖をつけるとケチな性格になるとされています。そして便を、貨幣に象徴的に対応させるようになる、ということです。(仲正昌樹(著)アンチ・オイディプス入門講義より)】
原始 大地 機械 は 流れ を コード 化 し、 器官 に リビドー を 備給 し、 身体 に 刻印 する。 大地 に 属する 身体 に 刻印 する という この 任務 は、 他のすべての任務を集約するもので、これに比べれば、循環し交換することは、まったく二次的な活動である。
人間は、忘却という積極的な能力によって、生物学的な記憶を抑圧することによって人間となったのであるから、今度は別の記憶を身につけ なけれ ば なら ない。 それ は 集団 的 な 記憶 で あり、 物 の 記憶 では なく 言葉 の 記憶 で ある。 効果 の 記憶 では なく、 記号 の 記憶 で ある。 それは残酷のシステム、恐るべきアルファベット、身体にじかに記号を刻む組織化である。
人間の歴史を説明しようとして、何らかの暴力、または自然的な暴力が根拠ととさ れる こと が ある が、〈 残酷〉 は、 こうした 暴力 とは 無関係 で ある。〈 残酷〉 とは、 文化 の 運動 で あっ て、 これ は 身体 において 作動 し、身体の上に刻まれ、身体をえぐる。
文化とは、人間あるいはその諸器官を、社会的機械の部品や歯車にすることである。記号とは欲望の措定であるが、最初の記号は大地的記号であり、身体の中にその 標識 を 植え つける。 肉 そのもの に この よう に 登記 する こと を「 エクリチュール」 と 呼ぼ う と する なら、 まさに 言葉〔 パロール〕 は エクリチュールを前提としているといわなければならない。また、人間の言語活動を可能にし、人間の言葉の記憶を与えるのは、登記される記号の、あの残酷なシステムであるといわなければならない。