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ベルクソン『 道徳と宗教の二つの源泉』

情動に二つの種類を、感情に二つの様相を、また感受性にも二つの発現形態を区別しなくてはならぬ。この全l部に共通しているのは、そのどれをとっても、感覚とははっきりと区別される魂の感動状態だということ、および感覚でのように物理的刺激の心理変換物へ還元できないという点だけである。


文筆の仕事に従事したことのある人なら、単に知性でしかないままの知性と、独自無二の情動の火でかれた知性との、著者の主題とが一つになったところからーーーつまり直観からーーー産み出された知性との相違を身をもって確認しえていよう。前者では、精神は材料を常温で鍛えただけ、言葉の鋳型に嵌まって久しい観念を結び合わせただけであり、その言葉は社会から擬固した状態で与えられたものでしかない。ところが後者の場合には、知性の提供する材料ははじめは鋳熔かされた状態にあり、あとになってはじめて擬固して観念となる。そしてこの観念は、前者の場合と違って、精神自身から生気を受けているという趣がある。


宗教の創建者と改革者、神秘家と聖徒、そしてわれわれが途上に出会いえて、われわれの目には最大の偉人とも同等と映る道徳的生における無名の英雄たち、ーーーこうした人たちがすべてここにいる。彼らの範例に惹かれて、われわれは、ちょうど勝利者の隊列に加わるようにそうした人たちの集まりに投ずる。この人たちは勝利者なのだ、ーーー事実、彼らは自然の抵抗を粉砕し、人類を新たなる運命へと高めたのであった。このように現象を散らして実在に触れるとき、またそれら二つの道徳がそれらの相互交換のおかげで概念的思惟や言語のうちでとることになった一般的形態を捨象してみるときわれわれは、このただ一つと思える道徳には両極があり、それは一つは圧迫、他は熱望だということがわかる。


社会体の道徳を規則通りに実行している人は、ある安泰感を経験していようが、この安泰感は、個人と社会とに共通なもので、さまざまな物質的抵抗が互いに相殺しあう様を表している。ところが自らを開く魂は、全き歓喜そのものである。快適感や安泰感も無意味なものではないが、歓喜となればそれ以上のものである。なぜなら、前者のうちには後者は含まれていなかったが、歓喜のうちには、快適感でも安泰感でも、見いだそうと思えばいつでも見いだせるのであるから。事実、歓喜は前進だが、まえの二つは、要するに停止ないしは足踏みにすぎない。


「 社会 の 圧力」 と「 愛 の 躍動」 とは 生 の 互い に 補い合う 二つ の 発現 に すぎ ず、 この もと の 生 は、 その 発生 以来 人間 種 を 特徴 づけ て いる 社会 形態 の 大綱 の 保存 に 専念 する のが 普通 だ が、 例外 的 には 個人 の 力 に 頼っ て 社会社会 形態 を 転 形 も し うる からで ある。


大 神秘 家 たち の 内的 発展 を、 この よう に その 至り 着い た 点 で 捉える と、 これら の 人々 が いったい どうして 精神病 患者 の 同類 と 見 られ たり し え た のか、 理解 に 苦しむほか は ない。 われわれ は、 たしかに 不安定 な 平衡 状態 の うち に 生き て いよ う。 また、 精神 の 平均的 健康 なる もの を 決める こと は、 身体 の 場合 とも 変わら ず、 決して 容易 とは 言え まい。 けれども、 例外 的 な もの で あり ながら 確乎 として 揺るが ぬ 知的 健康 という もの が あり、 これ は、 見れ ば それと 容易 に 見分け られる もの で ある。


それ は 行動 への 熱意、環境 に 適応 し、 仕損じ ても 挫け ず に 再興 する 力、 嫋 かさと 結びつい た 堅忍、 可能 と 不可能 とを 見分ける 予言 者 の 識別 力、 紛糾 し た 事態 を 単純 によって 克服 する 精神 など、 つまり すぐれ た 良識 とも 言う べき もの によって 見 誤り よう も なく 明らか な もの で ある。 こうした 特性 こそ、 まさしく われわれ の 論じ て いる 神秘 家 たち に 見 られる 当の もの ではなかろ う か。 そして 彼ら こそ、 知的 強健 の 定義 として 役立つ もの では なかろ う か。   こうした 人 たち について、 世人 は 違っ た ふう に 判断 する こと が ある が、 それ は、 彼ら に あっ て その 決定的 な 転身 の 序曲 と なる こと の ある、 或 る 異常 状態 の ため で ある。 彼ら は 人々 に、 自分 の 直観 に 映じ た もの、 その 忘( 脱) 我 の 境地、 また その 歓喜 の こと を 語る。こうした 状態 は、 精神病 患者 の 場合 にも よく 起こる 現象 で あっ て、 それら は いかにも、 彼ら の 病気 の 病気 たる ゆえん を なす もの と 言っ ても よい。


家族、 祖国、 人類 という 三者 は、 あと の もの ほど だ ん だ ん と 大きく なる 円 の よう に 見える ため、 自分 の 家族 や 祖国 を 愛する のと 同様、 人間 は 生来 人類 を 愛する もの の よう に 考え られ て き た が、 実は、 家族 および 個々 の 社会 集団 以外 には、 自然 の 欲 し た 集団 は ない。


この 地球 上 では、 他 の 種 すべて の 存在理由 たる 種( 人類) も、 なお 単に 部分的 にしか それ 自身 では ない。 もし この 種 を 代表 する 人々 の うち に、 生 の 全般 的 な 仕事 に つけ加え られる 個人 の 努力 を通して、 道具 が 差し向ける 抵抗 を 打ち砕き、 物質 性 に 打ち勝ち、最後 に ふたたび 神 を 見いだす こと を りっぱ に やり遂げ た 人 が い なかっ た と し たら、 人間 種 は、 完全 に 自分自身 に なる という この こと に、 およそ 思い 至る こと さえ なかっ た で あろ う。 こうした 人 たち こそ 神秘 家 に ほかなら ぬ。 この 人 たち は、 他 の 人 たち も やがて 歩む こと の 出来る 一条 の 道 を 切り 拓い た の だっ た。 まさに この こと によって また、 彼ら は、 生 の い ず こ より 来 たり、 またい ず こ に 向かっ て 去る かを、 哲学者 に 教示 し た の だっ た。


閉じ た 社会 とは、 その 成員 が 相互 に 支え 合い ながら、 自分 たち 以外 の 人間 には 少し も 顧慮 を 払わ ず、 たえず 他 を 攻撃 する か、 自ら を 防衛 する かの 態勢 に ある 社会、 要するに 成員 が ひたすら 戦闘 態勢 を 強いられている社会である。


われわれ は まず、 人間 は もともと ごく 小さな 社会 に 合う よう に 造ら れ て い た と 言お う。 原始社会 が そういう もの だっ た という こと、 この こと は 一般 に 認め られ て いよ う。 だ が それ に つけ加え て 言わ ね ば なら ぬ こと は、 そこ での 古い 精神状態 は、 文明 の 存在 にとって は不可欠 と 言う べき さまざま の 習慣 によって 隠さ れ ながら も、 依然として 残存 し て いる という こと で ある。 それ は 抑え つけ られ て 勢力 を 失っ て はいよう が、 意識 の 深み には 残っ て いる。 行動 を 左右 する には 至ら ない が、 その 存在 は、 人 の 話す 言葉 を通して 示さ れ て いる。

【所感】
杉山直樹氏の解説を引用する。
ベルクソン が「 解放」 の 理念 を 捨て去っ た という こと でも ない。 むしろ 本書 での 彼 は、 始原 論 ない しそ の 裏返し として の 目的論 を 排除 し つつ、なおかつ それでも 私 たち が「 解放」 や「 進歩」 を 語り 得る なら それ は いかに し てか、 という 問題 を 考えよ う と し て いる はず だ。 私 たち が 言っ て おき たいのは、 本書『 二つ の 源泉』 は、 少なくとも 以上 の 程度 にまでは すでに 問い を 押し進め て い た という こと で ある。

人間 という 種 と、 その 本性 的 ファクター( 知性 や 社会性、 仮構機能 などの 諸 機能) に 関わる 諸 力 は、 そもそも 創造 的 エラ ン の 停止 が 構成 する 平面 上 で 働く もの で あり、 それら は 最初 に 設定 さ れ た 枠 の 中 で 平衡 状態 に 至り安定 しよ う と する。 それ ゆえ に そこ での 道徳 は「 圧力・圧迫」 として、 そして 宗教 は「 防禦」 という ターム で、 記述 さ れる わけ で ある。 それ に対して、 神秘主義が 導入 する 力 は、 逆 向き の「 熱望」 として 描か れる。 それ は 諸々 の 平衡 状態 を むしろ 破っ て、 思いがけない 線 を 描き出し て いく もの だ。

ベルクソン が 素描 する〈 主体〉 は、 道徳的 英雄や 神秘 家、 あるいは 神 といった、 いわば 自分 を 超越 する 他者 との 関わり において 成立 する の だ が、 その 関係 とは、 単なる 相互 排他的 な「 能動 か 受動 か」「支配 か 隷属 か」 と いっ た もの でも なけれ ば、 結局「 死し て 生きよ」 といった ナンセンス に 至る よう な 弁証法 的 関係 でも ない。 創造 者 として の「 神 々」 といった概念 には、 そうした 独特 の 関係、 否 定性 なき 差異 の 共存 を 組織 する 力 の 存在 が 託さ れ ても いる。 当然 ながら、 この よう な 力 は 普通 の 意味 での「 主体的」な 選択 や 投 企 の 対象 では あり 得 ない 以上、「 それ を あて に しす ぎてはなるまい」 と ベルクソン も 言う。 だが この「 生 の 哲学者」 は、 もはや「 人間」 的 ではない 主体性、 もはや「 人間」 的 では ない 共同 性 を、 私 たち の「 生」 の 究極 的 な ─ ─ しかし 終局 では ない ─ ─ 可能性 として、 展望 し て いる ように思う。
(引用終わり)

保存させる圧力(保守ー閉じている)と前進させる創造力(革新ー開かれている)は、本書では、どちらが良い悪いとか言っているのではなく、同じ力だとされている。ベルクソンは、これを一方の中断がそのまま他方の出現となる、という特殊な相補的な二面性を基礎に展開した。すると、ここでは、創造的推進力を停滞させる物質的障害は何もないという楽観論が展開されることになる。こうして障害を取り除くとともにその先には宗教の開祖や改革家や神秘家や聖者たちの英雄的な行為による「愛による飛躍」が待っていると述べている。確かに、停滞して閉じられた社会をこじ開けて、前進させる英雄的な人物は人類歴史上でも、出現している。だが、マルクスなどは、社会を前進させたが、停滞もさせた。マルクス以降は、特に、英雄的な人物も出現なしに、資本主義が繁栄したのであるが、現在、また完全に停滞している。この状況を突破できる英雄的人物は、もう現れそうにもないし、それを求める群衆心理は、さらに社会を危うくするのを、我々は見てきた。




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