ヘーゲル『大論理学』第二巻 本質論(1)
第一篇 自己自身における反省としての本質
本質はすぐさま、ジャンプして有から出てくるわけではなくて、有の媒介運動の結果として本来の本質が現われてくる。本質は最初はまだ有的なものを含んだ直接的な本質としてあらわれたとしても、この本質は真の本質ではないということになる。本質は媒介的なものであり、直接的ではない。
本質的と非本質的なものは、別の二つのものとしてよいし、同じ定有の領域内でこの領域がこの二つにわけられるとみてもよい。
直接的な有は、本質のたんなる反映であり現象にすぎない。
仮象はものごとを本質をはなれてみたときの姿です。仮象から本質にいき、仮象が本質を措定する面があるとしても、じつのところは仮象とは本質自身が措定したものです。
本物の絵を見て似顔絵師は本物らしく描けるが、似顔絵師は本物の絵を描くことはできない。
反省とはともに非自立的なものなのです。だから、互いに自立していて、片一方をとりさっても片一方があるというものではない。
たとえば、商品と貨幣は独立しているものではないが、商品があるから貨幣があり、貨幣があるから商品があるというようなことです。
最初の抽象的な本質そのものが、それ自身の運動によってこの本質の自立化した自己への反省としてのより具体的、現実的な本質にいき、それが根拠だとする。この根拠によって措定されたもの、それが現存在と現象です。
引用図書及び参考図書
ヘーゲル著『大論理学』
見田石介『ヘーゲル大論理学研究』
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