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ヘーゲル『大論理学』第二巻 本質論(1)

第一篇 自己自身における反省としての本質

本質は有から出てくる。そのかぎりにおいて、本質はそのまま即かつ向目的であるのでなく、有の運動の結果である。

言いかえると、本質は最初は直接的な本質と見られるから、本質は一つの規定的な定有であって、それに対してはある他の規定的定有が対立している。

ヘーゲル全集『大論理学』中巻 P9

本質はすぐさま、ジャンプして有から出てくるわけではなくて、有の媒介運動の結果として本来の本質が現われてくる。本質は最初はまだ有的なものを含んだ直接的な本質としてあらわれたとしても、この本質は真の本質ではないということになる。本質は媒介的なものであり、直接的ではない。

すなわち、それは非本質的な定有に対立する本質的な定有にすぎない。

しかし、本質は即かつ向目的に止揚された有である。

そして本質に対立するところのものは仮象にすぎない。けれども、仮象は本質自身の措定である。

同上P9

本質的と非本質的なものは、別の二つのものとしてよいし、同じ定有の領域内でこの領域がこの二つにわけられるとみてもよい。

直接的な有は、本質のたんなる反映であり現象にすぎない。

仮象はものごとを本質をはなれてみたときの姿です。仮象から本質にいき、仮象が本質を措定する面があるとしても、じつのところは仮象とは本質自身が措定したものです。

本物の絵を見て似顔絵師は本物らしく描けるが、似顔絵師は本物の絵を描くことはできない。

本質は第一に、反省である。反省は自己を規定する。すなわち、反省の両規定は被措定有であるが、この被措定有は同時に自己への反省であるようなそれである。

同上P9

反省とはともに非自立的なものなのです。だから、互いに自立していて、片一方をとりさっても片一方があるというものではない。

たとえば、商品と貨幣は独立しているものではないが、商品があるから貨幣があり、貨幣があるから商品があるというようなことです。

第二に、これらの反省規定または本質性が考察されなければならない。

同上P9

第三に、本質は規定作用の自己自身への反省として、自己を根拠とする。そこで次に、この本質は実存と現象とに移っていく。

同上P9

最初の抽象的な本質そのものが、それ自身の運動によってこの本質の自立化した自己への反省としてのより具体的、現実的な本質にいき、それが根拠だとする。この根拠によって措定されたもの、それが現存在と現象です。


引用図書及び参考図書
ヘーゲル著『大論理学』
見田石介『ヘーゲル大論理学研究』



 

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