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偶然なのか必然なのか

昨日散歩していて、偶然にも25年ぶりに、ある人物に出くわした。

ある人物と記したからには、何らかの怨念が含意されていることになります。

25年も経過したから、もはやその怨念も風化してしまっていて、忘れていたと言ってもよい。

ところが、彼の顔を見たとたん、思い出してしまった。

もし、神様というのが、存在しているのだとすると、随分と残酷なことをするものだと思ってしまう。

ほんの1分いや30秒ぐらいの時間のズレがあれば、出くわすことはなかったと思う。

あまりの暑さに身体もくたばりかけていたので、日陰を求めて、アーケードのある街へと電車で移動しました。

そして、ついでに、ジュンク堂に向かう途中の通り道となるスーパー内での出来事だったのです。

彼の風貌を見て、なんでくたびれ感を隠さずに歩いているのだろうーーー我が身のことは置いといてーーーと感じた。

怨念と書いてしまったが、彼が全て悪かったわけではなくて、ただ単に私自身の能力の無さから、勝手に鬱状態となったからだ、と今は言える。

そうした意味では、偶然に見えて、過去を反省させるための状況作りをさせられたという必然性も感じられる。

この頃、般若心経やベルクソンの神秘について描いているので、そのせいなのかなぁ〜。

日陰を求めて繁華街をというイージーな発想を止めて、今日は久しぶりに早朝から会下山公園を歩いてみた。

日の出前なので、太陽光線もなく、涼しくて気持ちの良いものです。

しばらくすると、雲間から太陽が上がってきました。

朝日を浴びると、生命力が満ち満ちてくると言われているので、しばらくその場に止まっていた。

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