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柄谷行人著『帝国の構造』要約と私見

帝国の構造


第1章 ヘーゲルの転倒とは何か

1 なぜヘーゲル批判か

・アメリカの国務省の役人だったフランシス・フクヤマが「歴史の終焉」といったが、これはヘーゲルの『法の哲学』にもとづく考えだった。この『法の哲学』は今なお有効なために、ヘーゲルの根本的な批判をする必要がある。

2 マルクスによるヘーゲル批判の盲点

・ヘーゲルは『法の哲学』で、資本=ネーション=国家の三位一体的構造をつかんでいたが、ヘーゲルの観念論的な考えを唯物論的に転倒したとき、マルクスはそれを見失っていた。

①ネーションや国家、あるいは政治的次元は、芸術と並ぶ上部構造にすぎない、ということになる。

②経済的な構造が変われば、国家やネーションは自動的に消滅すると考えることになる。

③国家やネーションはイデオロギー、共同幻想、あるいは表象であるから、啓蒙によって解消できるというような考え方になる。こうしてネーションを軽視した結果、マルクス主義の運動は、ネーションを掲げるナショナル社会主義(ファシズム)に敗北した。

3 生産様式論の限界

・「生産様式」(生産手段をもつ資本家階級とそれをもとない労働者階級)からでは、資本制経済を説明できない。

・資本制経済は、貨幣と信用にもとづつ巨大な体系をもつ。

・マルクスは、『資本論』において、生産様式ではなく、商品交換という次元から考察した。

・資本と労働者の関係は、貨幣と商品の関係(交換様式C)を通して組織された。それが信用の体系を形成する。

・通常のマルクス主義者は、生産様式がいかに貨幣経済によって隠蔽されるかを論じていて、『資本論』が資本制経済の全体系を解明しようとした本であることを無視した。

4 交換様式の導入

・「交換様式」には四つのタイプがある。A
互酬。B略奪と再分配。C商品交換、Dこれらを超えるもの。

・労働商品では、貨幣で労働力を買う側は資本家であり、それを売る側は賃労働者です。資本は、この労働者に労働させることで剰余価値を得る。

・産業資本とは、労働者に賃金を払って協働させ、さらに、彼らが作った商品を彼ら自身に買い戻させ、そこに生じる差額によって増殖する。

・差額は生じるのは、産業資本は、協働や技術革新によって、相対的に労働力の価値を下げ、価値体系が時間的に差異化され、それぞれが等価交換であるためです。

・互酬原理よって成り立つ社会が国家の支配や貨幣経済の浸透によって解体されたとき、そこにあった互酬的=相互扶助的な関係を高次元で回復するものが、D です。

5 社会構成体と交換様式

どんな社会構成体も四つの交換様式の接合からなっています。ただ、それらはどの交換様式が支配的であるかによって違ってくる。

・交換様式A(互酬)によって形成されるミニ世界システム
・交換様式B(略奪と再分配)によって形成される世界=帝国
・交換様式C(商品交換)によって形成される世界=経済
・交換様式Dによって形成される世界システム

6 前後の転倒

・ヘーゲルの「法哲学」の唯物論的転倒は、たんに上下の転倒にとどまらず、前後の転倒でもある。

・カントは、理念を「構成的理念」と「統整的」に分け、歴史の理念は統整的理念となる。「統整的理念」は、「構成的理念」と違って、実現されることはないが、われわれがそれに近づこうと努める指標としてあり続けると考えた。

・これに、ヘーゲルは反発した。

・ヘーゲルの態度に背景には、フランス革命がある。カントがフランス革命的なものを徹底化しようとしたが、ヘーゲルはは、そのようなラディカリズムを斥け、現実を受け入れることを説いた。つまり、ヘーゲルにとって歴史は終わっているのです。

・マルクスは、ヘーゲルのように現在が「終わり」であることを否定したので、これは前後の転倒に及ぶ。

・マルクスにとって、共産主義とは、何らかの理想ではなく、現状を止揚する現実の運動と名づけている。このようにいうとき、マルクスは前方に、歴史の目的(終わり)を置くことを拒否している。その意味でヘーゲルを否定している。これは、ヘーゲルからカントの立場に戻ることです。ところが、マルクスはカントによに、未来の共産主義を「理念」(超越論的仮象)であるとは見なさず、現実の運動、そしてそれをもたらす「前提」の中に、共産主義があるという。これは、歴史を「終り」から見ることになる。つまりヘーゲルを否定しながらも、ヘーゲルをの「事後」の立場に立っている。

・ヘーゲルの場合は、現在が最後の段階であり、この先に革命はない。ところが、マルクスの場合は、未来を先取りすることになる。

・その後、マルクス主義は、唯物論的な観点をとりながら、実際は、観念論的(目的論的)な観点をとる。そこから、「終わり」を先取し、歴史的必然という観念によって人々を強制するような権力、政治体制が生じた。もちろん、それはマルクス本人とは別ものだが、マルクスによるヘーゲル哲学の転倒という問題に胚胎することは確かです。

7 未来からの回帰

・ニーチェは罪の意識は債務の意識にあると述べた。彼は道徳性を経済的なものから説明しようとした最初の人物である。もっとも、ニーチェには、互酬交換と売買の区別がなかった。実際には、人が抱く負い目は、贈与による負い目(恩、罪)です。一方、債務のほうは、金を返せばすむ。事実、資本主義の発展とともに交換様式が一般化すると、「罪」や「恩」という感情も希薄になる。

・フロイトが「抑圧されたものの回帰」というとき、それは過去のノスタルジックな想起とは程遠いものです。抑圧されたものが回帰する場合、人の意思に反して強迫的なかたちであらわれる、とフロイトはいう。

・過去のものが回帰するとき、それは、未来から到来するというかたちをとる。

・「未来」、「未だ成らざるもの」とは、交換様式Dです。それは交換様式Aを「高次元」で回復することです。

第2章 世界史における定住革命

1 遊動的狩猟採集民

・いわゆる未開社会は、きわめて多様で、狩猟採集の漂白バンドから、漁業、さらに簡単な降水の行、焼畑農業を含む氏族社会に及んでいて、質的に異なる社会構成体がふくまれているのに、それらが同一のものであるかのようにあつかわれている。

・遊動的な狩猟採集民バンドにはプーリング(共同寄託)しかなく、互酬的な原理は存在しない。それが存在するのは、定住し蓄積することが可能に可能になった後です。

2 定住の困難

遊動的な狩猟採集民が定住を嫌ったのは、定住がさまざまな困難をもたらすからです。

  • 第一に、バンド内の内と外における対人的な葛藤や対立がある。対立があれば、遊動生活では、単に移動すればすむが、定住生活では、それができないので、なんとか処理しなければならない。

  • 第二に、死者との間にも葛藤がある。一般に死者は生者を恨むと考えられるので、埋葬という習慣は太古からあった。

    だが、遊動生活では死者を埋葬して立ち去ればよかったのに対して、定住すると、死者の傍で共存することになる。それが死者への観念、および死への観念そのものを変えることになります。

    定住した共同体は、リニージ(血筋)にもとづき、死者を先祖神として仰ぐ組織として再編成される。

定住は備蓄をもたらし、それはさらに不平等や戦争をもたらす可能性があった。

3 互酬性の原理

・互酬システムは、定住化が不可避的ににもたらす富の格差や権力の集中を抑止する、すなわち、国家の形成を抑止する。

・互酬原理は、平等を実現するが、遊動的社会にあった自由を否定する。それは、個人を共同体にかたく結びつける。

4 定住革命

・栽培や飼育は人々が定住した結果、自然に生まれてきた。ゆえに、農業に先立って、定住が画期的な変化をもたらした。しかし、栽培や飼育を始めたのが画期的なのではなく、そこから生じる不平等、階級分解、国家形成の可能性があったのもかかわらず、それを抑止するシステムを創り出したことです。その原理が互酬性であった。これを「定住革命」と呼ぶことにする。

5 互酬性の起源

・定住化とともに、蓄積が始まり、階級や国家、いいかえれば「原父」が生じる可能性が生じた。それを妨げるのがトーテミズムです。トーテミズムとはあらかじめ「原父殺し」を行い、それを反復することである。したがって、原父殺しは、経験的にに存在しないにもかかわらず、互酬性によって創られる構造を支えている「原因」だということができる。

・贈与の義務があると、あるものが首長であるためには、自分の富を鷹揚に贈与することにより、富を次第に無くしてしまい、贈与ができなくなる。贈与の義務が首長が王となることを妨げている、あるいは王を殺している。

・遊動民のバンド社会は「無機質」であったが、定住以後は「有機体」になる。それは葛藤・相克に満ちた状態となる。互酬性とは、このような不安定な状態から無機質な状態に戻ろうとする欲動にもとづく反復強迫なシステムであるといえる。

6 遊動性の二つのタイプ

・一般に、農業革命が起こり、その後に、都市や国家が生成されたと考えられているが、ジェイン・ジェイコブソンは、その逆に、農業は、「原都市」(共同体と共同体の交易の場)で始まった、と主張している。

・遊牧民はノマドと呼ばれるが、ノマドは遊牧民だけでなく、さまざまな遊動民をふくむ。狩猟採集民、山地民(焼畑狩猟民)も入る。

・山地民は、遊動的狩猟採集民とは異なり、一度、定住したのち、山地に向かった人々である。

・戦争機械としての遊牧民は、国家を破壊するが、より大きな国家(帝国)を創り出す。資本も同様で、金融資本は、脱領域的であり、領域化された国家的経済を破壊する【私見:まさにGAFAが、各国家を破壊している。】

第3章 専制国家と帝国

1 国家の起源

共同体と共同体の間で交換がなされるとき、それは一定の法あるいは国家によって裏付けられています。

商品交換が始まるのは共同体と共同体の間であるとマルクスはいうが、法も共同体の間ではなく、共同体と共同体の間で成立するものです。共同体の中では法は不要で、そこには掟がある。

2 恐怖に強要された契約

ヨーロッパでは、王が諸侯や教会を圧倒して制覇して絶対王権が成立した過程を、万人が万人と敵対する状態から合意によって主権者が創り出されたと説明したが、実際は、王が覇権を握ったあと、万人がそれを承諾したのです。それが「恐怖に強要された契約」です。

3 帝国の原理

帝国はたんなる軍事的制服によって形成さえるものではない。あるいは、 たんに「 暴力 的 な 強制」 だけでも 成り立ち ませ ん。 その ため には、 多く の 国家 が 積極的 に 服従 する よう な 要素 が なけれ ば なら ない。 いいかえれ ば、 交換 様式 B が なければならない。注意 す べき こと は、 帝国 の 形成 において は、 さらに、 交換 様式 A も C も 不可欠 な 要素 で あり、 さらに、 交換 様式 D も 不可欠 だ という こと です。

《柄谷が主張している四つの交換様式とは交換様式A(互酬)によって形成されるミニ世界システム。部族的な社会では、これが支配的である。ここでは、富や権力を独占することができない。なぜなら、贈与とお返しの世界であるので、部族長は、お返しを続けていくうちに、やせ細ってしまうからである。

交換様式B(略奪と再分配)によって形成される世界=帝国。服従と保護というような交換であり、つまり服従すれば、保護が受けられるという交換である。封建社会では、交換Bが支配的である

交換様式C(商品交換)によって形成される世界=経済資本主義社会では、交換様式Cが支配的となる。この様式が成立するのは、共同体と共同体の間においてです。

マルクスは、このことを強調した。それは、商品交換の起源を個人と個人の間に見出したアダム・スミス以来の偏見を批判するためだ、と柄谷は言う。

さらに、交換様式Bも共同体と共同体の間で始まると言っている。なぜかと言えば、共同体間での商品交換という経済関係が法的関係なしにはありえないこと、したがって、契約不履行や略奪を不法として処罰するような何らかの法・国家が前提とされるという意味しているからというわけである。

交換様式Dによって形成される世界システム。互酬原理によって成り立つ社会が国家の支配や貨幣経済の浸透によって解体されたとき、そこにあった互酬制=相互扶助的な関係を高次元で回復することである。高次元とは、Aあるいは共同体の原理を一度否定することを通して、それを回復することを意味する。実際には、実施されたことのない、想像上の理想的な様式である。》

4 専制国家と帝国

専制 国家( 家父長制 的 家産 制) は、 一種 の「 福祉国家」 で ある と いえ ます。 ウェーバー は、 西 ヨーロッパ で「 福祉国家」 的 な 社会政策 が 出 て きたのは、絶対主義王権においてだと述べている。

5 帝国と帝国主義

帝国は多数 の 民族・国家 を 統合 する 原理 を もっ て いる が、 国民国家 には それ が ない。

その よう な 国民国家 が 拡大 し て 他 民族・他 国家 を 支配 する よう に なる 場合、 帝国ではなく「帝国主義」となる。

帝国 の 膨張 が 交換 様式 B に もとづく の に対して、 帝国主義 的 膨張 は 交換 様式 C に もとづく の です。

【私見:柄谷によれば、「帝国の原理」とは、多数の部族国家を、服従と保護という「交換」によって統治するシステムということである。帝国の拡大は征服によってなされるが、相手を全面的に同化しようとしない。服従し貢納しさえすればよいと考えている。

一方、帝国主義はネーション=国家の拡大としてあるもので、そしてそれは交換様式Cに基づいており、の国家にそれを強制すると、柄谷はいう。

アメリカの帝国主義は、外見上、自由・民主主義を奨励しつつ、交易の自由さえあれば、征服や略奪をしなくても、利潤を得ることができ、その結果、その国を支配することができるというわけである。

まさに、アメリカが日本を支配しているのは、この形である。日本での成功例にならって、ベトナム、アフガニスタン、南米諸国、中東諸国を支配しようとしたが、全て失敗に終わった。そして現在は、アメリカ国内に引きこもろうとしている。】

第4章 東アジアの帝国

1 秦帝国

中国に関しては、豊富な資料(遺跡・文献)があるので、帝国について考えるためには、中国のケースを見るのが適切である。

中国の国家社会は、紀元前1050年ごろまでが 夏 王朝、 その後、 殷 王朝、 さらに、 西周 王朝、 東周 王朝 が 続い た と 考え られ ます。 殷・西周 時代 は 専制 国家 では なく て、 多数 の 都市国家 の 連合体 でし た。それは。この時期、王がまだ首長のようなものであった。

殷・西周 は 黄河 流域 にしか なかっ た。 東周 において はじめて、 長江をふくめて、多くの国々が分立し抗争する状態になった。そのような春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝による帝国が形成された。

秦漢王朝は単に広域だからではなく、この 時期 まで 異質 で あっ た 文明 を 統合 し た から です。 この こと は、 生産 技術 や 軍事力 という よう な もの だけでは 不可能 です。 この 変化 において 重要 だっ た のは、実は思想です。

それを可能にした前提は、周王朝の時期に、漢字が共通言語として用いられるようになったことです。

漢字は「帝国」の言語となるにふさわしい文字となるのはなぜか。

音声と無関係に、文字によって意志伝達が可能になるからです。

互酬原理は氏族社会を律するものだが、それは、国家社会になっても残る。

互酬原理は、血縁や地縁による共同体の支配。あるいは豪族らの独立・割拠・抗争を支えるものとして、働くため、中央集権の成立を妨げる。

互酬原理は、また呪術的な宗教の根底にある。

神に贈与することによって神のお返しを強要する。その結果祭司の権力が強くなる。 

古代 に 集権 的 な 国家 を 創る ため には、 多数 の 豪族 や 祭司 を 制圧 し なけれ ば なら ない。 それ は 武力だけでは でき ませ ん。 その ため には、 何 よりも、 それら を 支える 互酬性 の 原理 を 克服 する 必要 が あっ た の です。 それ を 果たし た のが「 思想家」 です。

老子が説く「無為」は、道家(老荘)だけではなく、儒家にも法家にも共通する態度です。 

無為 とは 呪力 と 武力 に 頼ら ない こと です。「 思想」 の 力 が 成り立つ のは、 そこ において です。

孔子 は 暴力 による 統治 を 否定 し、「 礼」 と「 仁」 による 統治 を 唱え まし た。 また、 彼 は 呪術 による 統治 を 斥けた。

戦国時代に入って有力になったのは、法家です。たとえば、諸国の中でも西の辺境にあった後進的な秦を強国にしたのは、宰相 の 商鞅 です が、彼は、秦王の「賢人公募」に応じて秦にやってきた法家の学者です。商鞅 は、「法」による統治という考えを貫いた。

この法治主義は、被支配者を法によってて取り締まるということではなく、権力を恣意的に濫用する支配者(豪族ら)を法によって抑えることです。それが集権化のために何よりも必要だった。

商鞅 が行ったのは、一言でいえば、旧来の氏族的共同体を根本的に解体することだった。

2 漢帝国

儒家は漢王朝において支配的となったが、法家を斥けたわけではない。儒教はすでに荀子において。法家と共通する認識をもっていたからです。

董仲舒の儒教は、多様な儒教思想を総合するだけでなく、それまでの諸氏百家の議論を総合した。その意味で帝国を基礎づける思想であるということができる。

漢の武帝がこのような儒教を国教化したことは、たんに漢王朝にとどまらない、画期的な意味をもった。それは何か。

① さまざまな社会を包摂し統治する帝国の原理つまり文化を与えたということ。

② 漢の儒教は王朝の正統性を意味づけた。天命の観念がそれです。天命とは人民の意志であり、民意に支持されない王は天命をもたないから、そのような王朝は滅ばされてもよい。これが「易姓革命」と呼ばれる。王朝交代の革命を正当化する観念です。これは、のちに、外部からやってきた異民族の征服者にも適用された。

③官僚制を確立させた。

3 隋唐帝国

後漢の末期に、疫病が蔓延し、大量の流民が生まれた。その中で「太平道」を唱えた張角が創始した宗教が広がり、それが「黄巾の乱」に発展した。

漢王朝は「帝国」を確立したとはいえ、まだその萌芽にすぎなかった。たとえば、漢王朝は外にいる遊牧民の匈奴に悩まされた。それは武力が不足していたからではなく、遊牧民を包摂する原理をもたなかったからです。

中国に真に帝国といえる王朝が成立したのは唐においてです。しかし、それが実現できたのは、漢の滅亡以後の争乱時代を遊牧民の鮮卑(拓跋氏)が築いた北魏が終了させてからです。

北魏は遊牧民的な原理を維持しつつ、同時に農耕民国家であろうとした、最初の国家です。農耕国家とは中央集権的な官僚体制の確立を意味します。

その後、隋および唐は、北魏の政策を踏襲しました。隋も唐も北魏の武将だった者が作った、すなわち遊牧民が作った王朝です。

4 遊牧民の帝国

中華史観では、元は侵入者が築いた王朝であり、一時的なアクシデントにすぎないかのように見なされます。が、モンゴルはたんなる侵入者ではない。それは、鮮卑、唐、キタイによって受け継がれた「帝国」を受け継ぐものだった。

中国史においては、モンゴルは元王朝ということになります。しかしモンゴルが作ったのは元だけではない。アラビア・ロシア。ヨーロッパに及ぶ世界帝国です。元の皇帝フビライは、世界帝国全体のハーンとなった。

モンゴル帝国は、20世紀にいたるまで続いたロシア帝国、オスマン帝国、イラン帝国、ムガール帝国、などを生みだした。清朝もその中の一つです。

ただ、そのようなモンゴル帝国に注目すると、逆に、それが唐帝国に由来することが見えなくなってしまう。

5 モンゴル帝国

チンギスは、世界征服によって平和を実現することを天から与えられた使命だといったと、伝承されている。

このような考えは、それまでの遊牧民から出てこなかった。ではどこから来たか。

チンギスがいう使命は、中国にあった君主を超える「天命」の観念から来たといえる。この考えは唐帝国から来たのです。

6 モンゴル帝国以後

イスラム教の帝国が中東に形成されたのは、アッバース朝においてです。アッバース朝は、東西交易、農業灌漑の発展によって繁栄し、首都バグダードは巨大な都市になります。

しかし、アッバース朝の帝国はその後、ヨーロッパからの十字軍の侵攻に対してはもちこたえたが、1258年に侵入したモンゴルには一撃でやられた。その結果生まれた各地のイスラム帝国は、モンゴルを斥けて作ったものではなく、モンゴルの支配者がイスラム教に入信することによって生まれたものである。したがって、実質的に、それらはモンゴル帝国です。

イスラムがモンゴルに敗退したため、イスラム教そのものが変わった。そこから生まれたのがサラフィー主義です。どのように変わったのか

①マホメットの教えを完璧に実現した原初のムスリム共同体が堕落したからだというものです。これが、今日の原理主義はこのような考え方に根差している。

②それと対照的なのはシーア派です。彼らは初期の状態を理想化しないし、教団国家(カリフ)を拒否します。

③以上の二つより重要なのは、神秘主義ス-フィズムが一般に台頭したことです。これは神との合一を説くものです。個々人が神と合一するのだから、教団国家を否定するものです。

モンゴル帝国はたんに中国に新たな帝国をもたらしただけではなく、世界各地に新たな帝国をもたらした。

モンゴル帝国はモンゴル高原から出てきたのではなく、いわば唐帝国から出てきたものであり、それが中国に回帰して元王朝となった。

第5章 近世の帝国と没落

1 ロシア・オスマン・ムガール帝国

ロシア帝国は、ギリシャ正教の国家として、あたかもビザンツ(東ローマ帝国)を受け継いだかのように見えるが、そうではない。最初、ロシアは(ルシ)はキエフにありました。キエフもその後に発展したモスクワ公国も、ロシア帝国を作るようなものではなかった。

ロシア帝国をその後に生み出すような大きな変化は、1238年、ジンギス・カーンの孫であるバトゥー・ハーンの軍による征服です。そこで「キプチャク・ハーン国」が作られ、以後、モンゴルによる支配が250年続きました。

その下でハーンの支持によって強くなったモスクワ公国が、1480年、「キプチャク・ハーン国」を滅ぼした。ロシア帝国はここに始まる。この出来事は「タタール(=モンゴル)のくびき」の終焉だ、といわれます。

オスマン帝国は支配者がトルコ系で、モンゴル帝国とは別のものです。だが、広い意味で、モンゴル帝国を受け継いだといえます。オスマン王朝の君主の称号にハーンが使用されていることからも明らかです。

モンゴル帝国の系譜にあるものとして、インドのムガール帝国がある。ムガールの支配者が出会った最大の困難は、インドにヒンドゥーが根強くあったことです。

ムガールの支配者はイスラム教を強制しなかったので、宗教的対立は生じなかった。つまり、イスラム教より、「帝国の原理」を優先させたからです。

2 帝国の衰退

19世紀以後、ロシア・オスマン・ムガール帝国のような世界帝国は西洋列強の隆盛の下で没落しました。西洋中心的な史観が支配的となったのは、その結果です。

①世界市場が16世紀の西洋に始まったという見方です。
これはあまりにも西ヨーロッパを中心にした見方です。西ヨーロッパが経済的に興隆したのは、たんにその内部での生産力の発展によってではなく、その外の世界産業と世界市場に参入することによってです。

どのようにして参入したのか。

オスマン帝国ができたビザンツ帝国を滅ぼしたため、西ヨーロッパ諸国は通商圏に向かうことができなくなった。そこで、15世紀末、ポルトガル(バスコ・ダ・ガマ)はインドの道を、アフリカの喜望峰を経由するコースに求め、スペイン(コロンブス)は大西洋のコースに求めて、アメリカ大陸に到着したことによってアジアとの交易に参入できた。

なぜアメリカ大陸に渡ったのか。

そもそも西ヨーロッパがアジアにもっていって売れる産物がなかったが、アメリカ大陸に渡ったことにより、銀山を得たことにより、その銀をもって、はじめてアジアとの交易に参入できた。
【私見:今は、威張り腐っている、西ヨーロッパだが、この頃は、惨めな状況だったんだね】

したがって、「大航海時代」によって世界市場が開始したかのようにいうのは、まったくまちがいではないとしても、正確ではない。「大航海時代」は本来、ヨーロッパ人がモンゴル帝国のつくった世界通商圏に参入しようとする動機から始まったわけですから。

②19世紀以後に形成された見方では、16世紀の段階で、西ヨーロッパの経済はすべてにおいて東洋に優越しているように考えられている。

もちろん、そんなことはない。 アダム・スミスは『諸国民の富』の中で、「中国はヨーロッパのどこと比べても、ずっと裕福である」と書いている。スミスがそう書いたのは、1776年の時点、つまり、イギリスの産業革命の最中です。

ここから見ても、ヨーロッパには科学・技術的発展があり、東洋にはずっと「東洋的停滞」があったかのような見方が、この時期にはなかった、ということができる。むしろ老子の「無為」という概念にもとづいてレッセフェールを説いた経済学者ケネーが示すように、中国の知に対する敬意が一般にあったのです。

【私見:中島隆博(著)『中国哲学史』でも書かれていたように、ライプニッツも中国哲学を真摯に学んでいた。ところが、18世紀になると、急に中国哲学を排除するようになった。ヨーロッパ人の驕りからである。それが今や、その驕りさえなくなり、自信を失いつつある。】

3 ヨーロッパの世界=経済

世界=経済は、世界=帝国という「中心」に対して「亜周辺」にあったのです。いいかえれば、西ヨーロッパは、帝国の中心から離れているが、そこからさまざまの文明を選択的に受けとることができる地域にあった。

オランダやイギリスには帝国的な要素がまったくなかったが、まずスペインから独立した共和国オランダが、国際商業・金融を握ったヘゲモニー国家となり、つぎに19世紀にいたって、イギリスがヘゲモニー国家となった。さらに次のヘゲモニー国家はアメリカです。

その意味で、世界=経済の中心は、世界=帝国の亜周辺から、さらにその亜周辺へと移動したといえる。

4 帝国の近代化

19世紀になると、西洋の列強は世界帝国の周辺部に入り込み。それを植民地化するようになった。

オスマン帝国は、第2次ウィーン包囲に失敗したのを境に衰退を始め、弱体化した結果、多くの民族が独立を要求した。

20世紀の初頭にはオスマン帝国の勢力はバルカンのごく一部とアナトリア、アラブ地域だけになった。

オスマン帝国を復興すべく近代化を担った「新オスマン人」が考えたのは、西洋の近代国家と資本主義を超克することです。

「新オスマン人」は、近代西洋の思想に対抗する原理を、イスラム法(シャーリア)に求めた。現在、イスラム圏で支配的な「イスラム主義」は昔からあるように見えますが、近代の資本=国家に対抗する理念としてのそれは、この時期に形成されたものです。

「新オスマン人」が考えたのは、憲政を実現するとともに、同時に、帝国にあった原理を再活用することであったが、現実には、事態は、彼らの考えと逆の方向に進行した。

近代国家のように万人を形式的に平等にすると、かえって不平等が生じ、宗教的寛容さもなくなり、憲法で法的な平等が規定された後に、民族・宗教間の差別や対立が激しくなった。
【私見:こうして、見ていくと、アメリカが中東に乗り込んで民主主義を押し売りしたことの、愚かさが浮き彫りになる】

第1次世界大戦後、「民族自決」のスローガンとともに、オスマン帝国は解体された。

アナトリア地域では、ムスタファ・ケマル・アタテュルクを初代大統領とするトルコ共和国が成立した。

しかし、その他の地域は、英仏の委任統治の下にあった。英仏はオスマンの版図を好きなように分割し、その結果、人口の多いクルド人が国をもたないことになった。

【私見:このクルド人をめぐり、トルコが、ピリピリしていて、火種になっている。クルド人を北欧のスウェーデン、フィンランドがかくまっていて、彼らのNATO加盟を強硬に反対して阻止しているのがトルコという図式になっていた。2024年度現在は両国ともにNATO加盟国になっている。】

第1次世界大戦後、パレスチナを信託統治したイギリスは、それをユダヤ人の国家とするつもりはなかった。また、旧オスマンの地域では、ユダヤ人とアラブ人の対立はなかった。

それに対して、第2次世界大戦後は、アメリカが中東に介入し、シオニストを支援し、イスラエルを中東における橋頭保とした。これは、ヨーロッパに固有であり且つ、責任のある「ユダヤ人問題」(アウシュビッツに象徴される)を、何もなかった中東に転移することです。

オスマン帝国が示すのは、帝国は近代システムの中では存在できないということです。

旧オスマン帝国の問題は、イスラエルだけではなく、むしろ、諸国に分散されたクルド人の問題に集約される。

第6章 帝国と世界共和国

1 帝国と神の国

ヨーロッパでは、近代まで、王、領主(諸侯)、教会その他の勢力が争っていました。しかし、まったくの混乱状態であったわけではなくて、ローマ教会が、帝国の代わりの役目となり、一定の同一性と秩序を与えた。

したがって、ヨーロッパが帝国のような形をとったのは、皇帝ではなく、教皇によってです。このような教会=帝国を神学的に意味意味 づけ た のが トーマス・アクィナス です。 彼 は イスラム 圏 から 導入 さ れ た アリストテレス の『 政治学』 を 活用 し まし た。 それ は、 個々 の 国家 を 現実 として 認める とともに、 それを「神の国」としての教会と調和させようとした。

教会=帝国であるために、帝国に対する反乱は、教会批判ないし宗教改革というかたちをとっていた。そして、教会=帝国の解体は、二度とその再建にはいたらず、絶対王権が出てきた。

2 ヘゲモニー国家

世界 = 経済 では、 帝国 は 存在 し え ない けれども、 他国 を 圧倒 する 強国 が 出 て き ます。 それ は 経済的 な 発展 による もの です。 その よう な 強国 は しばしば 帝国 と呼ばれるが、比喩的な表現にすぎない。それをヘゲモニー国家と呼ぶ。

ヘゲモニー国家はたえず交替する。この点に関して、ウォーラーステインは、次のように考えた。
①ヘゲモニー国家が存在するとき、それは自由主義的な政策をとる。それに対して、他の国は保守主義的になるが、ヘゲモニー国家は圧倒的に優越しているから、問題にはならない。これが、「自由主義的」段階です。

②ヘゲモニー国家が衰退し、多数の国が次のヘゲモニーの座をめぐって、争う状態となり、これが「帝国主義的」段階です。

③このようなヘゲモニー国家は、オランダ、イギリス、アメリカの3つしかない。

マルクス派の経済学・政治学では、重商主義、自由主義という歴史的段階論を唱えているが、イギリスの歴史に基づくものである。

なぜなら、イギリスに先立ってオランダがヘゲモニー国家であり、自由主義的段階だったからです。この時期は、イギリスや他の国は重商主義(保護主義)的政策を取っていた。

オランダが没落後は、イギリスとフランスがヘゲモニーの座を争うようになった。これを重商主義と呼ばれているが、ヘゲモニー国家不在の時代、したがって、「帝国主義的」な時代です。

イギリスが優位となったのは、ナポレオン戦争以後です。つまり、1815年以後が自由主義的段階に入ったと考えられる。それはむろん、イギリスがヘゲモニー国家となったことを意味する。

19世紀後半には、このイギリスのヘゲモニーが揺るぎ始め、つぎのヘゲモニーの座をめぐって、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本が争った。その結果、第1次世界大戦を境に、アメリカのヘゲモニーが確定した。それに対して、ドイツと日本が抵抗し、それが第2世界大戦です。

アメリカのヘゲモニーが揺らぎ始めたのは、1970代からです。そして、アメリカを揺るがしたのは、アメリカの援助の下に復活を遂げたドイツと日本です。

その後、アメリカは新自由主義の政策をとるが、それはアメリカがヘゲモニー国家として没落しはじめ、新たなヘゲモニーをめぐって争いが生じる段階、すなわち、帝国主義的段階です。ゆえに、新自由主義は、自由主義とはまったく異なるもので、むしろ新帝国主義というべきものです。

【私見:アメリカがとった新自由主義(新帝国主義)を、他の国も、これに従属した結果、アメリカが没落をはじめてからも、延々と50年以上、アメリカの支配が続いているということになる。そして、どの国もヘゲモニー国家となれずに、コロナ禍、ウクライナ問題などで、共倒れとなりそうな状況というのが、現在なのか。】

3 歴史と反復

現在がかつての帝国主義時代と類似することに関して、つぎのヘゲモニーをめぐる争いという こと だけでは ない、 類似 点 が もう 一つ あり ます。

それ は、 1870年代 に 旧世界 帝国( ロシア、 清朝、 ムガール、 オスマン) が、 西洋 列強 の 帝国主義 によって 追いつめ られ ながらも まだ 強固 に 存在 し て い た よう に、 1990年代 に、 それら が 新た な 広域 国家 として 復活 し て き た という こと です。

現在 を 1930 年代 と 比べる 見方 が 根強く あり ます が、 それ はこの よう な 違い を 見 ない もの です。

1930 年代 には 完全 に 無力 な 状態 に 置か れ て い た、 中国、 インド、 その他 が 経済的 な 強国 として あらわれ て い ます。 かつて オスマン 帝国、 イラン帝国であったところも、いわばイスラム圏として復活してきたといえます。

また、ヨーロッパもヨーロッパ共同体という「帝国」として再登場した。

【私見:登場はしたが、イギリスがEUを離脱したことにより、今や、瀕死の状態にあるように見える。】

4 諸国家連邦

カントがホッブズ と 異なる のは、 いかに し て 平和 状態 を 創設 する のか という 点 に関して です。 ホッブズ の 考え では、 暴力 を 独占 する 主権者 を もつことによって、平和状態が創設される。しかし、これは一国においては可能であっても、国家間ではありえない。

諸国家連邦の構想は、本来、市民革命を貫徹するため に こそ 考え られ た の です。 いいかえれ ば、 世界 共和国 は 市民革命 によって こそ 実現 可能 で あり、 また、 真 の 市民革命 は 世界 同時 革命 によって のみ 可能 で ある という こと です。

カントがいういう「 永遠 平和」 は、 たんに 戦争 の 不在 として の 平和 では なく、「 一切 の 敵意 が 終る」 という 意味 での 平和 です。 それ は 事実 上、 国家 が 存在 し ない こと、つまり、国家の揚棄を意味するのです。

5 自然の狡知

非社交性、利己心とは、神学的には悪であり、アウグスティヌスの言葉でいえば、「自己愛」です。 それ は 地 の 国 として 帝国 を 創り出す。 が、 その よう な 悪 ないし 禍 は また、 神 の 国 を 用意 する もの でも ある。

ヘーゲル なら、 この よう な 過程 を「 理性 の 狡知」 と 呼ぶ でしょ う。同様 に、 カント に関して も「 自然 の 狡知」 という こと が いわ れ て い ます。

しかし、 われわれ は カント の いう「 自然」 の 背後 に、 神 ないし 理性 を もっ て くる べき では あり ませ ん

6 自然と歴史

通常、人 が もつ 義務 の 意識 は、 親 や 共同体 の 規範 を 内面 化 し た もの です。 したがって、 他律 的 です。 ところが、 カント が いう 義務 は、 自律 的 な もの で ある。 それ は 家族 や 共同体 に 課せ られるもの では ない どころか、 むしろ、 それ に 反し て 行う べき もの です。 ゆえに、 その よう な 義務 は、 別 の 意味 で「 外 から」 来 た もの だ、 という こと になり ます。

そうすると、 結局、それ は 神 の 命令 だ という こと に なっ て しまい ます。 しかし、 カント は、 この 問題 を 神 を 持ち出さ ず に、「 理性 の 限界 内」 で 解決 しよ う と し まし た。 すなわち、 それ を すべて、「 自然」が人間に与えた素質から説明しようとした。

ホッブズ は、 平和 状態 を、 各人 の 自然権 の 譲渡 に 見 まし た。 しかし、 この 譲渡 は 実際 は、 屈服 です。国家のレベルでいえば、それはヘゲモニー国家に服従することになる。それによって一定の平和が得られる。他の国がたえずヘゲモニー国家に挑戦するので、長続きしない。  

それ に対して、 諸 国家 連邦 から 世界 共和国 に いたる 過程 で 働く 力 は、 贈与 の 力 です。 すなわち、 武力 や 金銭 の 力 では なく、 それら を 贈与 する こと が もたらす力です。贈与 は、 たんなる 譲渡 とは 違い ます。 戦争 に 負け て 降伏 し た 国 は、 武装解除 さ れ 賠償 金 を 払う。 自然権 の 譲渡 とは 通常、 その よう な 意味 する。 

一方、贈与はいわば勝者のほうが武装解除することを意味する。だからこそ、 それ は 贈与 と 呼び うる の です。 それ は 贈与 の 力 を もち ます。 それ は いかなる 武力 よりも 強い。 具体的 に いえ ば、 国際 世論 が震撼されるからです。  

これ に 対抗 する ため には、 自ら 贈与 によって 報いる ほか ない。 この よう に 贈与 の 連鎖 的 拡大 によって 創設 さ れる 平和 状態 が、 世界 共和国 です。 

アウグスティヌス なら、 それ を 隣人 愛 によって 形成 さ れる 神 の 国 と 呼ぶ でしょ う。 しかし、 それ は カント が 示し た よう に、 もっぱら「自然」によって実現されるということができる。

第7章 亜周辺としての日本

1 周辺と亜周辺

日本 は 一 九 世紀 の 後半、 西洋 列強 が 世界中 を 支配 し た 中 で、 それ を 免れ た だけで なく、 自ら 列強 の中 に 加わっ た。 これ は 世界史 における 一つ の 謎 です。 ウェーバー から ブローデル に いたる まで 多く の 歴史家 が これ を 説明 しよ う と し て き まし た。

しかし、 この こと は、 帝国帝国 の 亜 周辺 という こと からしか 説明 でき ない と 私 は 思い ます。まず 中国 の 帝国 における「 周辺」 から 考え ます。 それ は 多種多様 です。遊牧民 によって 建て られ た 元 帝国 や 清 帝国 に 従属 し た とは いえ、 基本 的 に 自治 を 保っ て い ます。 中国 文化 の 影響 は 少なく、 漢字 も受け入れ なかっ た。 元 と 清 の 時代 には、 逆 に、 チベット 仏教( ラマ教) が 強い 影響力 を もち まし た。

それら に 比べ て、 典型的 に「 周辺」 的 だ と 考え られる のは、 コリア と ベトナムです。 いずれ も 中心 によって 征服 さ れ、 また、 それに たえず 抵抗 し ながら、 帝国 の 冊封 の 下 に あり、 また、 中心 の 文化 や 制度 を 全面的 に 受け入れ た 民族 です。 それ が周辺 的 な もの の 典型 だ と する と、 日本 は 違い ます。 日本 も 中国 の 制度 を 受け入れ て いる の です が、 コリア や ベトナム と 違っ て、 受け入れ が 選択 的 で あっ た。

日本人 は 中国 の 制度を 受け入れ つつ、 事実 上 換骨奪胎 し、 しかも、 廃棄 する こと は せ ず、 自分 ら に 必要 な かぎり で 維持 する、 という よう な やり方 を し た の です。日本 の 国家 は、 七 世紀 から 八 世紀 に、 隋 や 唐 から 律令 制度 を 導入 し まし た。 それ は 中国 の 帝国 を 中心 と 見なし、 それ に対して自ら を 位置づける もの です。

「 日本」 という 国名 そのもの も、 この とき に 始まり ます。 しかし、 彼ら は 中心 から 受けとっ た もの を、 十分 には 実行 し なかっ た。たとえば、最初から文言だけがあって、まったく実行されなかった法令があります。(①近親婚を禁止する法令を廃棄せず、そのまま放置②律令性の根幹である公地公民制を形骸化して荘園性とする③貞永式目を定めたが律令性は廃止せず。)

律令制 は この よう に 不可欠 な もの として 存在 し た の です が、 にも かかわら ず、 それ は 存在 し ないも 同然 でし た。 同じ こと が 天皇 について も いえ ます。 徳川幕府 は「 尊皇」 を 掲げ て い まし た が、 この 時代 に 日本人 の 多く は 天皇 が 存在 する こと さえ 知ら なかっ た の です。この よう な こと が どうして あり うる のか。

これ は、 日本 が 帝国 の「 亜 周辺」 で ある という こと を 見 ない と、 説明 でき ませ ん。いいかえれ ば、 日本 に 起こっ た こと の 特性 は、 たんに帝国 の「 中心」 と 比較 する だけでは なく、「 周辺」 と 比較 し ない と、 わから ない の です。日本 の 歴史家・思想家 に 欠け て い た のは、 その よう な 視点 です。

通常、彼ら は 日本 の 制度・思想 を 中国 との 比較 によって 見 ます。が、 コリア の よう な 周辺 国家 と 比較 する こと は し ない。 その ため、 コリア が 理解 でき ない だけで なく、 日本 について も 理解 が できないのです。 彼ら は、 律令制が コリア、 ベトナム など 周辺 諸国 によって 一斉 に 採用 さ れ た 事実 を 見 ない。

そして、 なぜ そう なのかを 考えよ う とも し ない。戦前 の マルクス主義 者 は、 日本 で、 近代 資本主義 国家 において 古代 的 な 天皇制 が 機能 し たわけ を 考えよ う と し なかっ た。 それ を もっぱら 生産関係 から 説明 しよ う と し た の です。

する と、 天皇 は 大 地主 だ という こと に なる。つまり、 近代 日本 の 天皇制 は、 地主 階級と 資本 が 結託 する 絶対 王権 で ある という こと に なる わけ です。 一 九 二 五 年 以後 の 日本 では、 すでに 重工業 が 発展 し 普通選挙 が 実現 さ れ て い まし た。 ところが、 この 時期 に、彼ら は 天皇制 打倒 を 第一 目標 に 掲げ た。 その 結果、 国家 に 弾圧 さ れ た だけで なく、 大衆 からも 孤立 し て 総 転向 する に いたっ た の です。

その よう な 経験 を 踏まえ戦後 の 左翼 は 天皇制 の 秘密 を 解明 する こと を 課題 に し まし た。 その 場合、 二つ の 態度 が あり まし た。 一つ は、 天皇制 を 生産様式 の よう な 経済的 下部構造 によって 根本的 に 規定 さ れる とは いえ、 それから 自立 し た 観念的 な 領域 に ある もの として 見る 態度 です。 する と、 天皇制 が 執拗 に 残っ た こと は、 観念的 な 上部構造 の 自律 性 を 示す もの だ ということになる。天皇制 ファシズム を 説明 する ために、 丸山 眞 男 は 政治学・社会学 を 導入 し、 吉本隆明 は「 共同 幻想」 に関する 理論 を 考え た。

しかし、 この よう な 見方 は 結局、 経済的 下部構造 を 無視 する よう になり ます。ただし、 私 が いう「 経済的 下部構造」 とは、 交換 様式 を 意味 し ます。 観念的 領域 とさ れる 共同体、 国家、 ネーション は、 それぞれ 交換 様式 に 根ざし て いる ので あっ て、 それから 独立 し て ある わけ では あり ませ ん。

また、 もっぱら 経済的 と 見える 領域 も、 ある 意味 で 極めて 観念的 です。たとえば、 資本主義 経済 は、 根本的 に「 信用」 によって 成り立つものです。それ は 商品 交換( 交換 様式 C) の 発展 として ある から です。マルクス の『 資本論』 は それ を 示し て い ます。 しかし、 多く の マルクス主義 者 は、 交換 様式 という 観点 を もた ない ため に、 経済的 土台 と 観念的 領域 という よう な 区分 によって、 不毛 な 議論 に 終始 し た の です。

つぎに戦後には、天皇制の問題に関して、もう一つの態度が反省として出てきました。それは、天皇性を古代に遡って、東アジア世界の「交通」において見るものです。石母田正は「日本の古代国家」国際関係が国家成立の要因であることを強調しました。そこで、日本の古代史を、東アジアの国際関係からみるようになったわけです。

しかし、彼に欠けているのは、帝国の中心、周辺、亜周辺というような地政学的構造の認識です。隋唐律令性の根幹をなす均田性は、中国では、これは5世紀に、遊牧民(鮮卑)の作った国家、北魏において開始された。北魏が創始した諸制度は、北魏の武将であった者らが築いた隋および唐の王朝によって受け継がれました。

隋唐の制度が、コリア・ベトナム・日本にいたるまで、広く周辺の国家に受け入れられた理由の一つは、そこにあるのです。たんに、中心の制度だから受け入れられた、ということではない。周辺に始まる制度だったから、周辺に受け入れられたのです。さらに、北魏で仏教が国教化された。帝国としての唐の新しさは、秦漢帝国において周辺部にあったものが中心に存在するようになったことにあります。だからまた、その文化はかってなく広範囲に広がったのです。

2 ヤマトとコリア

ヤマトとコリアの比較:唐がコリアに侵入➡ヤマトに危機感を与えた。大化の改新(645年)が決行➡その後、新羅は唐と結託してヤマトと近い関係にあった百済を滅ぼす(660年)➡百済勢の多くがヤマトの亡命➡ヤマトは百済救援のため派兵したが大敗(663年白村江の戦い➡ヤマトの朝廷が冠位26階を制定➡新羅が唐に反抗したため、ひとまず危機を脱した。

ヤマトが律令性を導入したのは意義には以上のような情勢があった。コリアと日本の違いは、帝国との中心のあり方にあります。コリアには、中心から直接的にかかってくるが、日本に対しては、それは間接的なものだった。

そして、そのことが、亜周辺を特徴づけるのです。コリアの場合は唐と戦い、コリアを統一したが、コリアの中国化はむしろ、中国からの独立とともに始まります。政治的に独立しても、帝国からの脅威はつねにある。

それに対して、中国からの冊封を受け、また、積極的に中心のシステム取り入れることによって存立をはかるようになった。同じことがベトナムについてもいえることです。中央集権的な体制の確立によって、文人官僚制が定着し、儒教思想が普及しました。13世紀には、科挙制度が始まった。

一方、ヤマトには中国からの支配がおよんでいません。3・4世紀、耶馬台国の時期には中国の冊封を受けていた記録がありますが、隋王朝の時代では、ヤマト朝廷が冊封を拒否した記録があります。聖徳太子は607年に、隋に国書を送り、拒否したと伝えられています。聖徳太子という人物がたとえ架空であるとしても、その時点で、ヤマトが冊封体制に入らないという意志を表明したことは間違いないでしょう。

「隋書」によれば、この書簡は、隋の燿帝を激怒させたという。ではなぜその後の放置したのか。それはヤマトが簡単に攻められないほど遠方にあったからでしょう。ただ、これだけのこととはいえない。隋がヤマトを攻撃しなかったのは、当時、高句麗と苦戦しており、背後にあるヤマトと敵対してはならなかったからです。

また唐が日本に攻め込まなかったのは、新羅が唐に反抗したからです。元が高麗を占領したあと日本襲来して失敗したのは、高麗における抵抗に長く悩まされたあとであり、また、動員した高麗の兵士が消極的であったからです。

つまり、日本の亜周辺は、ある意味で周辺的なコリアの存在によって保証されたといえるのです。さらに、702年に、ヤマトの使者が日本および天皇という変更を伝えたとき、則天武后は、そのことを不問に付した。要は、日本を帝国の「圏外」とみなしたしたということです。それは、日本が何をしようと干渉できないし、またその必要もないことを意味します。遊牧民国家と違って、侵入してくる恐れがなかったからです。

3 皇帝と天皇

701年の大宝律令では、祭司を管掌する神祗官が設定され、行政権力である太政官の上に置かれた。これは中国の律令性にはないものです。それは、天皇が権力の中心というより、権力を権威づける祭司として位置づけられるということを意味します。このことは、中国の皇帝(天子)とはまるで異なるということを意味します。日本の天皇も中国の天子も超越的ですが、超越的で区別するのは、意味がありません。

重要な点は、中国では、天子の正統性は、王朝が交替することを前提として考えられているということです。「天子」あるいは「天命」という観念は、王朝の交替という歴史的経験に根差しています。天命は民意である、という考えも、ここから来ます。

したがって、天命は、抽象的な観念ではなく、神がかりの観念でもありません。それは政治的な変革の理念と結びついています。一方、日本の天皇は、そのような存在ではありません。天皇は血統以外に、その存在を正当化する必要はなかった。

逆に、天皇は自ら権力をもつことはなく、たえず交替する権力者の存在を法的に正当化する”権威”になりました。「天命」は、中国の場合、たんなる観念ではなかった。それは、具体的には史官という官僚性とつながっています。史官は統治者を容赦なく論評する。たとえ同時代にそれを弾圧しえても、後の時代に対してはそいうわけにはいかない。のみならず、そのような弾圧したこと自体を批判的に書かれる。それがわかっているので、支配者は歴史を意識してふるまうようになります。

【私見:中国では、王朝が交替しても、国を管理する官僚たちは変わらない。おまけに、民意により王朝が変わるわけだから、大衆による支配(デモクラシー)は中国が古代から実行していることになる。それは、毛沢東が作った今の共産政権も基本的には変わらない。

マルクス主義は、労働者の階級闘争ではあるが、農民は含めていなかった。ところが、毛沢東は中国の伝統的なな手法である民意をくんで、農民も含んだ共産革命を起こした。

西側勢力からみれば、「文化革命」などと人権無視もはなはだしいと評判の悪い革命についても、民意となるのか。ソ連崩壊後の、東側の共産勢力は絶滅状態となったが、中国の共産主義は、今も生き残っている。しかも、しっかりと資本主義も取り入れており、共産主義と資本主義のという、まるで真逆の両思想に内在しているジレンマをも、感じさせずに、巧妙な立ち振る舞いをしている。しかも、こんな体制はいずれ破綻するに決まっていると思われながらである。】

4 官僚制と文字の問題

日本では律令制の導入にもかかわらず、官僚国家が成立しなかった。コリアでは高麗王朝において、さらにその後の朝鮮王朝にいたって、科挙にもとづく両班が支配する官僚体制が確立されました。

一方日本では、官僚制は確立されず、律令制を維持しつつも実際にはそれと無関係の武家政権の体制ができた。

これは、周辺と亜周辺の違いに他に、文字の問題がある。

官僚制はどこでも、官僚が文字(知識)を独占することによって成り立っている。東アジアでは漢字が使用されていました。漢字を習得するのは難しく、漢字をマスターした者とそうではない者の間には決定的な格差が生じる。その意味で、官僚権力は漢字にもとずくといえます。

朝鮮王朝では15世紀に、世宗が表音文字のハングルを創ったが、官僚の抵抗にあい、普及しなかった。普及し始めたのは第二次世界大戦後になってからです。

日本では、8世紀から10世紀にかけて、表音文字の仮名が創出され、一般的に用いられるようになった。なぜこのように定着するようになったかといえば、官僚制が弱かったからだ、ということができます。

5 漢字と仮名

ベトナムもコリアでも第二次大戦後、漢字の使用をやめました。対称的に、日本では漢字は廃棄されなかった。そもそも日本語エクリチュールは、漢文を読むことにもとづいて形成されたからです。もっと根本的にいえば、日本人は漢字あるいは中心の文化を、選択的(自主的)に取り入れたからです。

それは「亜周辺」に特有の現象です。日本では、仮名のおかげで和歌や物語が発展しました。が、それはたんに仮名によるのではありません。表音文字によって、民間で、特に女性の間で文学的表現が生じることは、朝鮮王朝の時代、ハングルによってかかれたことからも明らかです。しかし、コリアでは近代にいたるまで評価されなかった。

官僚制の下で蔑視されてきたからです。では、なぜ日本で女性の書かれたものが、その当初から高く評価されていたのか。

①日本で、公的な世界に対して、民間的あるいは女性的な世界が重視されたからではない。

②日本の宮廷では、男女を問わず、和歌が不可欠でした。

③物語はむしろ和歌の延長としてあった。

④元来、宮廷では詩文が重要だという中国の観念にもとづいて、日本の宮廷で和歌が重視されるようになった。それ以前には文学が重視されたことはなかった。

⑤文学の重視は、漢詩文の重視にもとづくものです。したがって、漢詩文を斥けて、和歌や物語を作ったのではありません。

ということで日本では文学が発展してきた。日本において漢詩文がもった地位は、律令制がもった地位とパラレルです。律令制は事実上、実行されていない。しかし、廃止されることもなかった。天皇制、武家法がそうであるように、その根拠が究極的に律令制に置かれていたからです。

ゆえに、律令制がなければやっていけない。それと同様に、漢字がなければ、仮名だけではやっていけないのです。しかし、ある意味で、漢字はあくまで外圧的です。漢字で示されるものと仮名で示されるものとの差異を、たえず意識させることになる。

漢字は公的、論理的、難解なものを、仮名は心情、感覚的な、平易なものを示す傾向があります。それはまた、人の態度にも関係してきます。仮名による和歌が、生きた感情を直接的にあらわす、と見なされるのに対して、漢詩文は日本人にとって概念的なフォーマルである。

このような漢字と仮名の区別は、平安時代の紫式部はそれを意識していました。本居宣長は「源氏物語」の中に、「漢意(からごころ)」への批判を読み取りました。宣長がいう大和心は、美的・直観的な態度です。このような姿勢が「源氏物語」にあることは確かです。

しかし、「源氏物語」には、そう簡単に片づけられないところがあります。美的・直観的な態度というのであれば、むしろ清少納言の「枕草子」にこそあてはまるでしょう。彼女の態度は、趣味判断を理論的・道徳的な判断の上に置くものです。趣味判断の根拠など問うてはならないのです。

それに対して、紫式部の「源氏物語」はたんなる断片的直観ではなく、相反するものを総合する構成力をそなえています。彼女はむしろ「漢意」を強くもっていたというべきです。紫式部は清少納言のことをつぎのように評しています。「清少納言は賢そうに漢字を書き散らしているけれど、よく見れば足りないところが多い」と。

しかし、一般的にいえば、日本の文学の特徴は、清少納言の系列にあります。それは、美的・直観的、断片的です。社会的な現実性がなく、普遍的な理念性がない。というより、それを斥けているのです。このような特徴は「亜周辺性」から来ていると思います。

「中心」においては、堅い骨格となる理念性が必要です。また、「周辺性」でもそれが要求される。しかし、「亜周辺性」にはその必要がない。だから、理論的・道徳的な態度を嫌い。手仕事のようなものに価値を与えます。その点で、自由でフレキシブルです。しかし、限界も実は、そこにあります。理論的・道徳的なものを軽蔑する態度は、普遍的に世界に通じるようなものではありえないのです。


【私見:Twitterのタイムラインを眺めていると、理論的・論理的に書きくだいている投稿に対して、反論にもならない、ただの罵倒の言葉をパブロフの犬のごとくに反射的に繰り返す輩を多く見かける。宮台氏が言う「言葉の自動機械」ということになる。

これなどは、理論的・道徳的なものを軽蔑する態度以前の問題である。人間は神とは違い、完全ではありえないから、いくら理論的・道徳的に振る舞っていても、心の底は何考えているか分かったものではないと経験的に知り、それを感知できる人物もかなりいることは事実ではあるから、その本音を暴く態度というのは起こりえる。

しかし、本音で生きたり、他人の本音を暴いたりという態度だけで良いわけではない。中学生、高校生レベルでは、真面目な秀才タイプより、少し不良がかって本音で生きているみたいな人たちの方が受けがよかった。それが、社会人になっても続いているわけである。

柄谷氏の説によると、日本は「亜周辺」にいるのだから、こうした傾向性は、今後も消えることはない、となる。英語にしても、日本には和風英語というのがあるぐらいだから、適当にカタカナにして、分かったことになり、学校で英語を学ぶ時間が多い割に、英語を喋るひとが人が少ないことも「亜周辺」が関係しているのか。

大戦前の日本は植民地となったことがない。大戦後は、実質アメリカの植民地的な存在となっているが、英語一つとっても、こんな状態だから、日常生活は植民地的には見えないこともそうなのか。戦争責任をあいまいにし、現政権の呆れ果てるほどのいい加減さも、そうなのだろう。(ここは強引だ)すると、世界的に通じる理論的・道徳的なものを重視する態度も考慮にいれるのが必要となる。】

6 日本の封建制

日本の封建制や武士道が、西ヨーロッパの封建制や騎士道と類似性かあることは、よく指摘されてきました。私の考えでは、西ヨーロッパに封建制が生じたのは、日本と同様に、それが亜周辺であったからなのです。

周辺のコリアは、律令制を導入したのち、徐々に官僚制国家を形成していった。それに対して、同時期に律令制を導入した日本では、官僚制国家が成立しなかった。その結果、各地の武士の抗争の中から、武家政権が生まれたのです。武士の上層部は公家を警備する「侍」として、律令国家の末端に従属しましたが、相対的に武士は辺境にいました。

しかし、律令制国家の機構の外に私有地(荘園)が発展すると、国家に代わって、警察・裁判のような仕事を受け持つ者が必要になった。武士がその役目を果たしたのです。中央の国家機構とつながる棟梁と、主従関係を結んだ。平家や源氏という集団は、そのようにしてできたのです。この武士らが結ぶ主従関係は、「封」を介した互酬性(双務的)関係です。

したがって、これは集権的な官僚組織にはなりません。最初に実権を握ったのは平家でした。平家を倒した源氏は、平家がたどった道を避けて、つまり京都から離れて、東国に新たな政府を開設した。その後執権北条泰時は「貞永式目」を発布した。

武家政権は実際の権力を得たにもかかわらず、皇室の”権威”を否定しようとせず、逆に、それに依拠しようとしたのです。この「二つの制度」併存したのは、鎌倉時代からです。日本の封建制が変容していったのは、それらが相克するようになってからです。

後醍醐天皇が鎌倉幕府から実権(天皇の親政)を取り返そうとしたことです。しかし、このことは日本の内部からだけでは説明できません。元からの二度の襲来を斥け、北条政権も一応安泰となったのですが、その後に危機に直面した。その理由として、この防衛戦争では勝利したのに、獲得したものが何もなかったため、武士らに恩賞を与えることができなかった。そのため各地で不満をもった武士階層と結託して後醍醐天皇は律令制=古代国家を回復しようと企てたことにある。注意に値するのは、これが、中国的な「正統性」の観念にうごかされたものだということです。

この正統性をめぐる争いが、南朝と北朝という皇室の分裂・抗争だけでなく、武士勢も分裂・抗争を全面化させた。その結果、南朝は敗れ、「「復古」的勢力は滅んでしまいます。逆に、武家の支配はこの過程を通して、一層浸透しました。こうして、鎌倉時代以後の公家と武家の二元体制が滅んだのです。しかし、これが直ちに武家による中央集権的国家を作ることにはならない。そこから中央集権的な体制が作られるまでには戦国時代を通過せねばならなかった。

戦国時代には、上下の転倒を指す言葉として、「下剋上」があり、これが公家や武家に限らず、全社会に及びました。多くの大名が競合する中で、当時に到来した鉄砲を活用して、織田信長は覇権を握った。信長の後を継いだ豊臣秀吉の時代には、鎌倉時代にあったような封建制、あるいは互酬的な主従関係は成立しなくなった。

このように16世紀末には中央集権的な政権が形成されようとしていました。秀吉は信長と違い、皇室に接近し関白となったが、それに満足することはなく、明を征服して皇帝となることを考えた。実際、そのために、朝鮮半島に攻め込んだのです。彼の企画の背後に、戦国時代を経て強化された軍事力だけではなく、東南アジアにいたる広域通商圏がありました。

明は元と違って、そこから内に閉じこもろうとした。だから、明に代わって、それを制覇しようと考えたのは、別に奇矯ではありません。秀吉の死後権力を握った家康は、すぐさま、このような路線を撤回しました。一方、秀吉を撃退した李朝は、その後厄介な問題に出会いました。それは、彼が夷として蔑視してきた女真(満州族)のヌルハチが、明朝を倒して清朝を築いたことです。そこで、李朝の人たちは、明の文化を受け継ぐのは自分たちだと考えた。つまり、朝鮮王朝こそ”中華”だという観念を抱くようになった。

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