ハラウェイの「サイボーグ宣言」とは何か

船木亨(著)『現代思想史入門』に基づいて、サイボーグ宣言とは何かを考えてみる。

ダナ・ハラウェイ( 1944~) が「 サイボーグ 宣言」 という論文 を 発表 し て、 話題 と なっ た。   彼女 は、 その 論文 の なか で、 いま の 社会 状況 は、 サイバネティックス と バイオテクノロジー という 二つ の 技術 によって決定的 にさ れ た と 述べ て いる。

サイバネティクス:動物と機械のコミュニケーション技術のこと。

バイオテクノロジー:生物工学のこと。

この二つの技術によって身体を機械と同等にする装置や薬品が生産され、分配され、身体は社会に組み込まれて、人間生活はすっかり変質してしまった。

もしこれらの技術によって形成されたいまの状況がひとびとによって拒否しがたいものであるならば、われわれはすでにサイボーグなのであり、もはや人間なのでないと、ハラウェイは主張する。

彼女がいう人間は「男性」のことなのである。というのは、彼女によると、近代における理性的主体としての人間は、まずは男性のことであって、これまで女性はそのあとに「解放」されて(自由が与えられて)それに追いついてくるという経過を辿ると、無批判的に考えられてきた。ところが、精神分析やマルクス主義は、必ずしも女性を解放しようとしていなかったと、ハラウェイは述べる。

フロイトは、女性を家父長制的なブルジョア家族のなかにとじ籠めようとしていたにすぎなかったというのである。マルクスの方は、人間の本質を労働として捉えたが、むしろ労働によって人間が主体になると考えていたのであって、労働する人間としての「男性」を生みだそうとしていたのであった。

しかし、文明の歴史においては、労働は機械を作りだし、機械を人間に結合する方へと向かってきた。こうなると、労働はもはや男性よりも、機械と動物の混成物としてのサイボーグを生みだすようになった。

ところがマルクスは、そうした傾向を、人間が機械の奴隷になると捉え、よくないと述べたのであった。サイボーグ化によって男性か女性かという区別が無効になっているのに対し、かれは、「労働が疎外される」と称して、男性に機械と合体させることをやめさせようとし、それによって、機械や女性に対する男性の優位性を確保しようとしたのであった。

男性が労働を独占し、女性を家族のなかにとじ籠めて、男性と子どもの世話をさせる方向での議論をしかさせようとしなかった。近代の人間観をのり超えるどころか、女性に対しては、反動的にふるまっていたのである。

理性的主体としての近代の人間像は、男性による女性差別によって成立していたということがあきらかになった。


したがって、フーコーが「人間は消滅した」と述べたとき、それは、ハラ ウェイ にとって は、「 男性」 という 種類 の 人間 が 消滅 し た という 意味 で あっ た。「 人間」 は、男性 と 女性 を 区別 し て、 男性 の 諸 特性 によって 規定 さ れ て き た 概念 で あっ た。 フーコー の いっ て いる こと は、 人間、 すなわち 男性 で あっ て ジェンダー を 区別 し、 女性 を 搾取 し て い た もの が 消滅 し た ということなのである

実質的 に 女性 差別 を 解消 し た のは、 人権主義者 たち でも なけれ ば、 フェミニスト たち でも なかっ た。 マルクス の いう と おり、 機械化 が 進ん で労働 から 人間性( 男性 性) が 奪わ れる こと によって で あり、 逆説的 ながら、 もとより 人間性 からは 疎外 され て い た 女性 たち が、 機械 と 親和性 の ある 存在 と なっ て、 おのずから 男性 たち から 解放 さ れ た ので あった。

女性が社会進出するようになっているのは、女性が解放され、人格として認められるようになったからというより、職場 の 仕事 が オートメーション 化 さ れ て 事務職 が 増え、 機械 の ネットワーク に 繫 が れ て、 中性 的 な 作業に なっ た からで ある。

西欧近代文明においては、ひとびとは、野生のひとを「未開人」と見くだして呼ぶように、狂人、女性、幼児、老人たちの思考を、不十分な思考、曖昧な思考として、一段と低く見て差別し、人間すなわち男性思考、すなわち形式と数式を重視するエクリチュールの思考を、それらのひとびとを差別する社会的実践によって価値づけてきた。

ハラウェイは、もはや女性は「産む性」ではない、女性は生殖しないと述べ、ポストモダンのジェンダーなき世界において、すべてが畸形的なものとして、トカゲの尻尾のように再生すると述べた。

生殖のための行為は副次的なものにすぎず、あたらしい機械に結合した人間も、試験管ベイビーやクローンも、性交渉によって生まれてくる赤ん坊と同等の、ひとつの誕生なのである。

われわれは、生命政治(生の政治)が教える、多様なリズムで循環して代謝する健康な有機的身体よりも、無理がきいてすぐに復活し、ときには超能力を発揮するような身体を望んでいる。

この身体は、みずから統合しようとする健康な有機的身体の概念を否定する「器官なき身体」である、それは一個の身体においてではなく、サイボーグとして、他のひとびとの身体や他の諸機械や諸生物とのネットワーク、その組みたてにおける連結や切断において出現する身体である。

このように、ハラウェイは、フーコーの生命政治論とドゥルーズとガタリの器官なき身体論とを結びつけながら論じたのである。


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