ミシェル・フーコーの哲学について
現在、ミシェル・フーコー著『知の考古学』の読書メモを投稿中ですが、慎改康之共著『現代フランス文学に学ぶ』に基づいて、彼の哲学を勉強します。
フーコーは「権力」「知」「主体」という三つの言葉でいろいろなことを述べてきた言われてきました。
権力とは、どこかに悪いやつがいてできているのではなく、特に私たちの権力というのは、いろんなところにそういう関係がある。たとえば、会社の空間のありかたとか、ものごとの言いかた、(「言説」)など。
だから、自由な思考するかに見えた主体というのも、じつはいろんな言説によってつくられるのだ、という観点を打ち出した。
『狂気の歴史』
狂気という概念は、どういう人が狂気に分類されるかということを通じて、古典時代に入って変わり、そして近代に入ってからまた変わったとフーコーは言う。
古典主義時代に大いなる閉じこめという運動があった。それまで「あれは気狂いだ」と分類される人がいなかったわけではない。そういう人は、たとえばあちこちの町を隊列をつくってうろついてまわったり、密室に監禁されたり、狐憑きといわれたり、いい予言をするというので村の共同体の迎えいれられたりと、いろんなあり方があった。
ルネサンス期には、一定の自由を享受していた狂者たちが、17世紀の半ばになると、放蕩者や貧困者、性病患者などと共に、監禁施設に閉じ込められた。この監禁制度は18世紀半ばに解禁されるが、狂者だけが、家族に対して危険であるという理由で取り残されることになる。
『臨床医学の誕生』について
この著作において問われているのは、18世紀末の西洋における実証的医学の成立がどのようにして可能になったのかということである。
18世紀以前までは、病については、諸々の症状の集まりにすぎぬものとして、医師の視線に全部晒していたが、以後、身体の内部を探求することになった。つまり、病は身体の表面で判断するのではなく身体の内部の不可視の部分の診断に委ねることになった。
『言葉と物』
言葉と物は、いろんな時代のエピステーメーをテーマにした本です。エピステーメーとは、「ある時代、時代の総合的な知のありかた」ぐらいの意味です。
いかに理性的に判断し、主体的に行動していると思っていても、それはその時代における社会構造、エピステーメーによって、無意識のうちに影響を受けているのだ。
ルネサンス時代の学問においては、「類似」を基盤としたエピステーメーにより、似たもの同士の関係が調べられていた。また、この時代では、言葉は物と同じような対象と見られていた。
古典時代においては、言葉は対象化されない透明な存在となり、言語によって表象された物だけが学問の対象となった。言葉と物が分離され、言葉によって物を写し取ること、表現することを特質とした。
18世紀末、エピステーメーに大きな変動が起き、「見える世界」(表象)から、その背後にある「見えない世界」へ視線が移された。
19世紀には、表象に没入している視線から、表象を可能にしている存在への視線変更であり、まさにこの表象を可能にしている存在こそ、「人間」なのである。
人間は表象する主体であると同時に、表象のなかに登場する客体(対象)でもある。そのためフーコーは人間を「経験的=先験的二重体」と呼んでいる。
『知の考古学』
『知の考古学』の提示するのは、伝統的な思想史研究(解釈学的方法を持ちいることによって連続性を再構築する)とは別のやり方で思考の歴史を記述する可能性である。見ているのに見えないものを見えるようにすること。「我々を、我々自身の連続性から断ち切る」こと。これこそが、フーコーが打ち立てようとするものである。
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