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ジル・ドゥルーズ& フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』 読書メモ(8)

6 1947年11月28日ーーーいかにして器官なき身体を獲得するか

・とにかく、 きみ たち は それ を 一つ( あるいはいくつか)もっている。それがあらかじめ存在しているからでも、出来上がったものとして与えられているからでもない、ーーー見方によってはあらかじめ存在するのだがーーーとにかく、きみたちはそれを作り出すわけであり、そえを作り出すことなしには、欲望することなど不可能なのだーーーそしてそれは、きみたちを待っている。


・CsO。それは身体が器官にうんざりし、器官を放棄したがっているか、それとも失ってしまうときに、もう始動している。その長い行列を見たまえーーーまずヒポコンデリーの身体、その器官は破壊されてしまい、破壊はすでに終わって、もう何事も起こらない。


・物質 は エネルギー に 等しい。 ゼロ から 出発 する強度の大きさとして現実が生産される。それゆえ、われわれはCsOを有機体の成長以前、器官の組織以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵として扱う。


・欲望 とは 欠如 で ある( 欲望 が、 その 欲 する もの を 欠い て い ない はず が ない)。僧侶は去勢と名づけられる最初の犠牲をおこない、北方の男女はみなこぞって、「欠如、欠如欠如、それがみんなの掟」と叫んだ。

さらに南方を向いて、僧侶は、欲望を快楽と結びつけた。享楽主義、いや性愛情欲主義さえ信奉する僧侶がいるからだ。欲望は、快楽によって、つかえを下ろしすっきりする。快楽を得ると、欲望は一時的に口をつぐむだけではない。

快楽を得ることは、欲望を一時的に中断する方法であり、たちまち欲望の荷を下ろし、人から欲望という荷を下ろしてくれる。荷下ろしとしての快楽。僧侶は自慰と名づけられる二番目の犠牲をおこなう。

それからまた僧侶は東方に向けて叫ぶ。〈悦楽〉は不可能である。しかし不可能な悦楽は、欲望の中に刻みこまれている。なぜなら、〈理想〉とはこうしたもの、まさに不可能の中にあり、「生とは歓びを欠いていること」なのだ。

僧侶は、西方にだけは向かわなかった。西方は、存立平面で満ちてていることはわかっていたが、この方角には出口がなく、人の姿も見えず、ヘラクレスの柱でふさがっているのを知っていたからだ。実はここにこそ欲望はひそんでいた。西は東への、再発見され脱領土化された他の方角への、一番の近道であった。


・有機体 が 身体 に 固着 する のに劣らず、意味性は魂の固着する。どちらからも、逃れることはやさしくない。そして主体から、つまりわれわれを固定し、支配的な現実の中に釘づけする主体化のポイントから、いかにわれわれ自身を離脱させることができるのか。

意識を探求の手段にするために、意識を主体から引き離すこと、無意識の真の生産にするために意味性と解釈作用から無意識を引き離すこと、確かにこれは身体を有機性から引きはがすのがむずかしいのと同じようにむずかしい。

三つの領域に共通のテクニックは慎重さなのである。有機体を解体するとき、死に接近してしまうことがあるとすれば、意味性と服従から逃れるときには、虚偽や、幻影や、幻覚や、心理的な死をかすめてしまうこともある。


・欲望 は、 自分自身 の 消滅を願ったり、破壊的な力をもつものを欲したりするところまで行く。貨幣の欲望、軍隊の欲望、警察や国家の欲望、ファシストの欲望。ファシズムさえも欲望なのだ。何らかの関係のもとで、一つのCsOが成立するとき、そこにはいつも欲望がある。

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