「自由の相互承認」について
「自由の相互承認」は、ヘーゲルが提示した哲学原理である。以前も、この原理にサラッとふれたことはあるが、改めて、苫野一徳著『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』に基づいて、考えてみます。
個人は「生きたいように生きたい」という「自由」への欲望を抱えている。ところが、他者も同様の欲望を持っている。
こうして、双方の欲望同士がバッティングする。すると、相手側にこちら側の欲望を強引に認めさせようとする。
しかし、結局のところは、相手が認めるわけがないので、「承認のための生死を賭けた戦い」は、非残な命の奪いあいとなる。それは、現在行われている「ロシアーウクライナ戦争」や「ハマスーイスラエル戦争」を見ても、自明なことである。
こうした戦いを防せぎ、「自由」になりたいという欲望を満たすための条件として、ヘーゲルが提示したのは、下記の通りです。
国際紛争やテロリズム、また領土問題など、現代社会には、今なお深刻な国際問題があふれている。
各国・各地域が、相互承認関係を築き上げることなく、自分たちだけの「自由」ーーー利得、権益、信条ーーーを押し付け合っているようでは、紛争がいつまでも続くことになる。
ハマスによるイスラエルへの襲撃事件から、三ヶ月経過したが、いつ終わるとも知れぬ戦争状態が続いている。
ヘーゲルの提示した原理は、正しいのだろうが、単に「絵に描いた餅」ということになっている。まさに、「人間の世界はきれいごとばかりではない」ということだろう。
「きれいごと」どころか、悪神がとりついている状態である。
本来であれば、国連は、こうした国際的紛争を停止させる機関であるべきなのだが、理事国に否決権を与えているようでは、まったくその機能を果たしてしていない。
停止させるどころか、火に油を注いでいる始末では、どうにもならない。泥棒を取り締まるどころか、他人の家にフリーで侵入できるようにと泥棒に鍵を与えているようなものです。
世界的な「自由の相互承認」の可能性について、苫野氏は下記のように述べている。
可能性はないということであれば、取りあえずは、国連のような機関が、実際に戦争を停止できる機能があれば良いだけだ。そのためには、理事国の否決権を剥奪することだろう。
だが、国連設立のための条件として、主要戦勝国に、否決権を与えることだったという経緯があるので、それも困難だ。
どうにもならない、袋小路で彷徨うしかないようだ。国際的な世論で、否決権の剥奪と叫んで、盛り上げるしかないだろう。
SNS上では、戦争停止を否決したアメリカへの批判が高まっているから、まったく、不可能ということでもない。
問題なのは、こうした批判を、単に、反ユダヤ主義、反イスラエル主義だと捉える人々もいることだろう。このnote投稿者でクリスチャンを名乗っている人が、こうした見解を述べている。
アメリカのキリスト教福音派の人々が、そうした主張をしていることは聞いていた。が、日本人が同じ主張をしていることに愕然としている。
ナチスによって実際に迫害を受けた人々とその子孫の人たちが、反ユダヤ主義、反イスラエル主義に反対するのは理解できる。しかし、当事者でもない日本人が、なんでという思いである。
ナチスによる迫害と同様のことを現在パレスチナ人に対して行っているという事実には、向き合えないということか・・・・
去年の10月7日に突然ハマスが、イスラエルを攻撃した当時に、そうした主張を鵜呑みにするならともかく、以後三ヶ月の経緯とともに、様々な情報が飛びかって、その実体も見えつつあるにもかかわらず、そうした情報を封印することには、無理があるものと考える。
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