四苦八苦する
仕事には、生産にかかわる製造業とかかわらないサービス業とに大きく分けることができます。
製造業(配管設計)を30年間、サービス業(デイサービス)を15年間勤めてきました。
デイサービスに転職してからは、苦悩を感じなくなった。それは、納期に追われることなく、その日、その日で区切りがつくからでした。
配管設計では、何かにつけて納期を守ることに四苦八苦していた。
この四苦八苦という言葉は、普通の会話でも使用されているが、元々は、仏教用語からきている。
苦には次のように八種類あります。
生
老
病
死
愛別離苦
愛しているものと別れ離れる苦悩。怨憎会苦
怨み憎むものと出会う苦悩。求不得苦
求めても得ることができない苦悩。五蘊盛苦
われわれは五蘊(色、受、想、行、識)で構成されているが、つまり要素の集合体にすぎないわれわれが「確固とした自我をもつ存在だ」と錯覚しながら生きていく、それが苦しみだと考える。
老病死が苦であるのは分かるが、生がなんで、苦となるのだろう。
現世で生きていくのが苦しいという意味であれば分かる。
仏教学者佐々木閑氏によれば、「生」を新生児が母親の産道を通って来るときの苦しみだという解釈もあるということです。
その他、仏教では輪廻することが苦しみであるから、「生」を「生まれたこと」と解釈すれば、苦となる。
加藤尚武氏は、「生には、つねに老・病・死という苦しみがある」という仏教の前提は明白に誤りであり、「苦しみがあれば、必ず楽しみもあると言わなくてはならない」と主張していた。
我々の普通の感覚からみれば、加藤氏の述べている通りだと、思える。日常語で使用する「苦」とは、苦しみ、苦悩、苦痛、不快という意味で捉えているからです。
「一切皆苦」の苦はパーリ語でドゥッカと言います。この仏教のドゥッカは、日本語の「苦」よりは、広い意味で使われているようです。
楽や幸せも、ドゥッカに含まれるのだから、日本語の「苦」という訳語は、誤解を与えるので、適切でないといえる。
それゆえ、加藤氏は、ドゥッカの意味を誤解していたということになる。
妻の友人の旦那さんは、私と同じ77歳ですが、去年の暮れに、様子が変ということで、病院で、診察してもらうと、悪性リンパ腫だったというのです。
直近でも、八代亜紀さん、小金沢昇司さんと年下の歌手が亡くなり、ますます「死」を身近なものに感じるようになった。
幸い、今のところは、大きな「病」は、免れているが、そのうち、生、老、死、死という四苦の恐怖のドゥッカが生じてくる。
この構造に気づいたとき、釈迦は「命あって当然という驕り」が消え失せたと述懐したというのです。
若くて元気いっぱいな頃なら、こうした恐怖心に絡めとられることなく、忘れることができるので、日常生活を守ることができた。
こうして、四苦が身近となると、「一切皆苦」という概念は、心に響いてくる。
佐々木氏は、こんな時の対処法を教えるのが仏教だという。「仏教は病院」というわけです。
強がっているのではないが、佐々木氏がYouTubeで配信している仏教講座を4年間視聴してきたせいか、恐怖心が消え失せたとはいかないまでも、かなり、減少していると思っている。
こんなもので、十分なわけがないので、お勉強だけではなくて、実践が必要であることは分かっているが・・・・
参考図書:佐々木閑、 宮崎哲弥共著『 ごまかさない仏教―仏・法・僧から問い直す』(新潮選書)
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