芸術の普遍性
竹田青嗣氏は言う。芸術は集合的な芸術ー批評のゲームとして成立していること、そして、芸術的価値も本体論も芸術相対主義もその顛倒された表象にすぎず、芸術ー批評の言語ゲームのうちで芸術のすべての諸契機が生み出されている、と。
芸術作品の普遍性の根拠は、芸術に内在する本体からくるのではなく、精神的なものから、美的なもの、善きものを感受する人間の幻想的身体体制から現われるのであると言う。
ところが、芸術の判定には、絶対的な基準というものがないがゆえに、絶対的権威をもつ批評家の一存で決定する「権威主義」化、政治利用化、商品としての価格を重視する「サクセスゲーム」化する傾向にあるために、芸術ー批評ゲームには困難がつきまとうことになる。
そうなると、相対主義者は、芸術には何ら普遍的なものがなく、人々の幻想にすぎないのではないかと主張する。
これは、本質を取り違えたと言うべきだろう。芸術ゲームが商品ゲームになってしまうことと、芸術の普遍性の原理があるうることとは別問題だからである。
芸術は文化の一ジャンルでしかなくて、絶対的な必然性もなく、また存続し続けるべしということでもない。しかしながら、芸術の存在は、人間が生きていく上で、審美的なもの、人間的諸価値を存続せしめたいという人びとの集合的意志を表現している、と竹田は述べる。
身体的に生存してゆくためには、食物を欠くと餓死するしかないことは自明である。しかしながら、精神的に生き延びるためには、「人はパンのみにて生きるにあらず」と聖書にあるように、絵画、音楽、文学などの芸術を必要としていることも自明である。
元大阪市長だった橋下氏は、文楽は何も利益をもたらさない無駄な事業だとして、補助金減額すると主張していた。芸術の生存価値という視点からすると、いかに残虐行為であったかが分かる。
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