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「梵我一如 」について

インド哲学では「梵我一如」が根幹思想であるといわれている。

このインド哲学については現象学学者である竹田青嗣氏は、下記のように評価している。

インド では、 哲学 は 伝統 的 な 宗教 的 説話 体系 の 再 解釈 として 姿 を 現 わし た。 哲学 の 思考 は、 理性 の 推論 の 能力 を 駆使 し て 世界の 始 元 的 原理 を 言い あてよ う と する 独自 の 言語 ゲーム として 現われ た が、 輪廻、 業、 解脱、 という 生命 の 転生 説、 世界 の根本 原理 として の ブラフマン と アート マン といった インド の 宗教 的 世界観 の 中心 観念 は、 ここ では まだ そのまま 保持 さ れている。

だが、哲学の思考は世界の始元性という観念に焦点化され、伝統的な宗教説話に新しい想像力と合理的な因果性の観念をつけ加えようとする努力が見出される。

竹田青嗣. 欲望論 第1巻「意味」の原理論 (p.40). 講談社. Kindle 版.

努力は見出されとしつつも、やはり、インド 哲学 では 動機 において も 理 説 において も 宗教 的 世界観 が 圧倒的 優位 を 保ち、 その 中心 問題 は 人間 の 救済、 輪廻からの 解脱 の 方途 で あり、 この 観念 をめぐって 聖なる もの の 中心 観念 が 転変 する。

一方、ギリシャ 哲学 では、 世界 理 説 は 始発 の 場所で すでに 宗教 的 世界観 からの 離脱 を 示し て いる。この こと は もちろん、 ただちに 西洋 的 思考 の 合理性 や 優位 性 といったこと を 意味 する わけ では ない、と述べる。

この「梵我一如」という考え方を調べてみると、一部ではあるが、現象学との類似性を感じた。竹田氏の著作を読んだ限りでは、こうした言説があるのを見たことがないので、これから述べるのは、あくまで私見です。

「梵我一如」の梵(ブラフマン:宇宙を成り立たせる原理)と我(アートマン:個人を成り立たせる原理)は同一であるという考え方です。

はぁ?ですね。なんだか、スピリチュアルくさい。だが、インド哲学は宗教色が強いとはいえ、論理的な面もあります。

我(アートマン)とは「認識主体」、つまり「意識体験」(クオリア)と言い換えられます。

これは、甘い物を口にしたときは「甘いなぁ~」と、そして冷たい物には「冷たっ」と、リンゴを見たときは「ありありとした赤色」のように、五官で認識すること、これが我であるというのです。

対象を我に取り込むのであるから、現象学的といえる。しかも対象を空ずる、すなわち対象をありのままに捉えるわけですから、これは現象学でいう対象を「事象そのまま」に捉えることと類似というよりも、同一ではないかと思った。

次に、梵(ブラフマン)とは何かですが、これについても論理的な説明はされています。

梵(ブラフマン)は宇宙です。『宇宙』自体が拡大し続けた結果としての森羅万象が存在するということです。この宇宙拡大説はビッグバンとして、現代物理科学や天文科学でも共有されている。

ビッグバンとは、素粒子以下に圧縮された物質の火の玉が、猛烈に爆発して膨張していくという説である。地球の生命体はタンパク質と核酸からできているという定説があり、どのようにしてできたのかは謎ではあるが、いずれにしても宇宙の膨張過程で誕生したのであるから、宇宙と我は同質(一体)であるという理説は成り立つ。

インド哲学的には、ここから、縁起という概念が生まれ、人間の救済、輪廻、悟りという宗教的な理念へと向かっていくために、省きます。



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