永井均著『西田幾多郎』について(続)
永井均氏は、ほとんど解説本を書くことはないが、それでも数少ない中の一つとして、『西田幾多郎 言語、貨幣、時計』があります。
前回は、上著書を再読して同感したことを書きましたが、今回は気づいていなかったことを取り上げます。
それは、デカルトが説く「われ思う、ゆえに、われあり」に関して問題にされる、「それは論証なのか、それとも直観なのか」ということに対する、デカルトと西田の立場の相違でした。
デカルトの場合は、それは両方であり、論理的推論と生の事実、つまり本質と実存は連続している。その後の西洋哲学史は、生の事実でない側を自立させる方向へと展開した。
ところが、西田は直観、すなわち生の事実だけを疑いえないものとしたために、デカルトが直面しなかった難問にぶつかった、と永井は言う。
この難問から脱出するためには、一種の言語哲学的な方向に展開するしかない、と述べる。
前回は「主客合一」「純粋経験」という概念のイメージから、仏教の禅、瞑想、悟りに近い哲学なのではと思い込んでいたことに気付かなかった。
宗教は「物語」で世界を説明するものであり、一方、哲学は「物語」を使わず、概念を論理的に使って世界を説明するものである。
したがって、西田は哲学者であるがゆえに、論理的にならざるをえなくなる。すると、西田は、いったい何を求めて、仏教の修行をしたのだろう。
湯川秀樹氏を始めとした物理学者やスティーブ・ジョブズのようなIT創業者も仏教界に興味を示していたこととは、同類ではないものと考えている。
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