【感想】そして、バトンは渡された/瀬尾まいこ

※私のための読書感想文です。ネタバレは配慮しておりません。

――家族とは何か。
簡単なようで難しいテーマだと思います。主人公の優子は、父が3人、母が2人というとても特殊な家庭環境。冒頭で彼女は「困った。全然不幸ではないのだ。」と独白します。これが、第一部のはじまり。複雑な家庭環境に周囲が求めるドラマ性を彼女は自分の人生に見出していません。それが彼女の普通だから。でも、読んでいく内に私が感じたのは、優子の生きてきた環境はやはり普通ではないし、彼女は結構、深い傷を負っているな、ということです。複数の親たちはそれぞれ、彼女に間違いなく親の愛を与えています。美しい家族愛です。でも、愛が理由の行動であったとしても、優子は悩むし、傷つく。当たり前の子供の姿が見事に描かれた第一部でした。

優子の2人目の母親である梨花さん。優子は産みの母を覚えていませんから、優子にとっての母親像は彼女になります。優子のために何もかも差し出せる彼女は、事実、優子の「母親」であると私は思います。ただ、梨花さんの魅力的なところは、彼女の奔放なところにありますが、すべてが良いとは言えません。自分のことも捨てず、優子のことも大切にしようとする。その「大切にする」のやり方は、すべて共感できるものではありませんでした。それでも、何についても彼女にとっては「優子最優先」であったことは間違いないのでしょうし、事実、彼女が保護者後継者として選んだ森宮さんは、優子にとって最良でした。周りの環境に振り回されて、諦観を持ってしまっていた優子に、森宮さんの良い意味での放任主義は間違いなく優しく響いていたのだと思います。

子供にとっての幸せを、私は「親が構うこと」とは思いません。親の過保護は子供にとっての不自由です。アレをしてはいけない、これもダメ。とすべてを取り上げられるのは苦しいです。なにより、経験を積むことができない。自分で考え、決断する力を育ててもらえなかった子供が、大人になったときどれだけ苦労をするかは計り知れません。自分で決断することは、その決断の責任を自分で負うことに繋がります。とても重いことですが、これができないまま大人になるのは悲劇だと私は思います。
優子は、11歳でこれを学びました。産みの父である水戸さんがブラジルに渡る事と共に離婚が決まった水戸さんと優子さん、そのどちらについていくかという、子供にとっては究極の選択です。

11歳の優子は、梨花さんと日本に残ることを選びました。そして、優子と父の縁はここで途切れてしまいました。優子は寂しがりますが「それを選んだのは自分だ」と不満を言うこともできず苦しみます。
優子は作中で、大人が決めてくれたらよかったのに、と独白しますが、それではきっと、優子は梨花さんと上手く暮らしていくことはできなかったでしょう。自分の苦しみや悲しみの原因は父との繋がりを感じられない寂しさだったと読みましたが、それが梨花さんによってもたらされたものだと思ってしまっていたら、きっと優子は梨花さんを恨んでいた。たとえ父親とブラジルに行くことになっていたとしても、それが自分の選択でなかったとしたら、優子はブラジルでの苦しみを理由に父を恨んだかもしれません。

自分を恨む人を愛することは、大人子供関係なく非常に難しいです。
優子は11歳のとき、自分で親を選んで、それによる苦しみを自分できちんと引き受けました。本当に苦しかったと思うけれど、その経験は間違いなく優子を強くしたと思います。この決断の経験が、第二章の優子の強さの理由なのでしょう。

第二章では、大人になった優子が高校の同級生である早瀬との結婚を、親たちに認めてもらうための物語が展開されます。結婚という二度目の「自分の家族を決める」という選択肢を前に、優子はまっすぐに自分の「親」と向き合いました。そして大人になった優子の目線からもう一度、第一部で登場した「親」たちが描かれる。結婚に反対し続ける森宮さん、距離感はあったけれど静かに見守ってくれていた泉ヶ原さん、本当はずっと手紙を送ってくれていた実父の水戸さん、それから、病を隠し通すために優子のもとを去っていた梨花さん。

第二章は、優子が「親」たちの愛を再発見していく物語だと感じました。そして、そのなかで唯一、優子が最後までわからなかったのが今の父親である「森宮壮介」だった。本作では、家族は血のつながりだけではないことをしっかりと描きながら、家族は近い存在だけれど、だからといってわかっているわけじゃない、という当たり前のことをしっかりと描いていました。

本作の登場人物にスーパーマンはいません。カッコイイ大人もいません。みんなそれぞれ不器用で、不完全で、とてもじゃないけれど「人格者」なんて一人も居ません。全員が「ありふれた人間」として描かれています。本作の魅力の一つです。それでも最後、人の親として「スーパーマン」の顔をチラリと覗かせた人物がいました。森宮さんです。

森宮さんは、最初は優子と早瀬くんの結婚に反対します。最終的には、賛成しますが、それは優子と早瀬くんの説得に根負けしたからではないと解釈しました。森宮さんが結婚に反対していたのは、彼の言っていた通り、早瀬くんに「放浪癖」があったからだと思います。
作中、早瀬くんは二度目の訪問以降、自分の演奏したピアノのCDを森宮さんに送っていたとありました。それでも、早瀬くんは「レストランを開く」と言っていました。このブレがきっと、森宮さんの言っていた「放浪癖」なのでしょう。自分が本当にやりたいことは、本心ではわかっているはずなのに、それから目を背けてフラフラと寄り道してばかりいる。その癖、大事な娘と結婚しようとしている。それが森宮さんは許せなかったのかな、と読みました。確かにそんな人との結婚は、認められないかもしれません。
それを嗅ぎ取って、本人達の必死の願いにも頑として首を縦に振らない。それでも、早瀬くんのもってきたものはきちんと食べる。根底には「早く自分の本音をちゃんと優子と話せこの野郎」と思っていたかもしれません。気の弱い森宮さんが父として大人として、不器用ながらも「スーパーマン」をした期間だったと思います。

またこの物語には、多くの食卓が登場しました。作品全体として「親」と「家族」を描きながら、そしてその根幹を描くために、「誰と何を食べるか」ということを軸にしているように思います。第一章の前、森宮さんの独白で、彼は朝食を考えている。その後もたくさんの食事のシーンが作中に出てきます。始業式のカツ丼、家族で食べようとしていた手巻き寿司、大家さんの家で食べたおせんべい、柔らかすぎるソファで食べる紅茶とクッキー、連日続く餃子、ふわふわオムレツのサンドイッチ。

生き物が生きていくためには、食べることは必要です。そして子供は、自分だけでは食べることができません。だから親は子供に食べ物を与えます。これは多くの動物がそうで、人間もその一種です。家族で、同じものを食べる。私も当たり前に繰り返してきたことですが、大人になって、それが案外面倒で大変だということに気がつきました。それでも、それをする。家族だから。食卓にはその家の「色」が出ます。「家族」を描く作品で「食卓」を描く瀬尾さんのセンスがとても素晴らしかったです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?