【感想】ディレクターズカット ブレードランナー 最終版(字幕版)

※私のための読書感想文です。ネタバレは配慮しておりません。

以前から気になっていた「ブレードランナー」を、Amazon Primeで視聴しました。ファイナルカット版ではなく、プライムビデオで視聴できるディレクターズカット版の感想です。

視聴したあとにまず考えたのは、人間とアンドロイドの違いは何か、ということです。高校時代に、生物の定義を学んだ記憶はあるのですが、残念ながら思い出すことができません。
Wikipediaで調べてみると、諸説あるものの、基本的には、

「生命現象を示すもの」

「生物」(2022年1月17日 (月) 14:32)『ウィキペディア日本語版』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%89%A9

とのことでした。生命現象……と言われると、私はたとえば、代謝があったり、子孫を残したりすることかな? と考えます。ブレードランナーは、続編であるブレードランナー2049でレイチェルの子孫が登場するらしいので、だとすると、ブレードランナーに登場するレプリカントたちは私の基準でいえば「生物」に該当します。

しかし、作中での彼らの扱われ方は、決して知的生命体へのそれではないと感じました。それはおそらく、私が現代の感覚でもってこの映画を見たからではなくて、作品そのものが「反乱を起こしたレプリカント達は殺す対象である」とはっきり描いているからです。地球に密航した時点で彼らはさまざまな法を犯した犯罪者ではあるのですが、そこに人間が人間を裁くような裁判があるようには見えませんでした。レプリカントが犯罪を犯したのなら、処分する。そんな明確で簡潔なルールが適応されます。なぜなら、彼らはレプリカントであり、人間ではないからでしょう。

レプリカントたちを殺す任務を受けたのは、すでにブレードランナーを退職しているベテランのデッカードです。彼はレプリカントたちを処刑する任務とあわせて、彼らがなぜ地球にやってきたのかを調査するように指示を受けます。そして、作中で明かされた、地球に密航してきたレプリカントたちの目的は「4年しかない寿命を延ばす手段を探すため」でした。

彼らは4年という短い時間のなかで、奴隷として労働し、感情を得るそうです。そして、彼らの仕事は人間が行えない危険な仕事ばかり。多くのレプリカントたちは、自分の職務に対して恐怖を覚えることでしょう。そして、死にたくないと願う。もちろんそれだけでなく、レプリカントたちは人間と同じく、誰かを愛するという感情をも得ている。

「生きたい」という欲求は、命あるものの本能です。レプリカントたちは、その本能を得るように設計されながら、それを達成できないように作られています。その短すぎる人生を、私は悲しいと感じました。映画のラストシーン、窮地のデッカードの命を救ったのは、デッカードを追い詰めた張本人のロイです。ロイは地球にやってきたレプリカントたちの首領で、地球にやってきた時点ですでに寿命がほとんど残っていませんでした。ラストシーン、彼はなぜか左手に白いハトを掴んだ姿でデッカードを追い詰め、そしてデッカードの命を助けたあと、最後の言葉を残して寿命を終えます。

I've seen things you people wouldn't believe. Attack ships on fire off the shoulder of Orion. I watched C-beams glitter in the dark near the Tannhauser gate. All those moments will be lost in time... like tears in rain... Time to die.

Sir Ridley Scott. Blade Runner. Rutger Hauer. 1982. ディレクターズ・カット(最終版),
Warner Bros. Entertainment Inc., Amazon Prime Video.

「私は人間が信じられないようなものを見てきた。オリオン座の肩で燃え尽きた宇宙船、ターンホイザー・ゲートの近くでは暗闇に輝くCビーム。そんな思い出も時が来れば消える……雨の中の涙のように……時間だ」

上記は私の拙い訳です。このセリフを語るロイ役のルトガー・ハウアーが本当に見事でした。映画の中、彼のことはずっと非常な非人間に見えていたのですが、ラスト、潜伏先であったJFの家にもどってきて以降の彼のみせる悲しみや狂気の人間らしさたるや。それからの、この最期の言葉。彼が情緒を明確に手に入れていて、心があって、思い出を失うのが怖くて、生きたかった存在だとまざまざと突きつけられました。生きたい、でも生きられない。生き延びる手段はなかった。死にゆく命への深い悲哀と、生命への愛が滲んでいるシーンだと思いました。死ぬことが怖かった彼がデッカードを殺さずに生かしたこと。白いハトを傷つけることなく掴み続けていたこと。彼の命が潰えたあと、そのハトは元気よく飛び立っていきます。これらすべてが、ロイというレプリカントの本当の姿のように思えました。そもそもレプリカントは人間よりも強いので、デッカードを殺そうと思えば簡単だったはずなんです。でもそれをしなかった。デッカードは、ロイが愛した仲間を殺した仇なのに。

私は、何をしてでも生きたかったレプリカントだからこそ、生きていける命を殺せなかったのではないかと解釈しました。
人間は、レプリカントを殺します。なぜなら人間はレプリカントの創造主だからです。しかしレプリカントであるロイは人間を殺さないことを選びました。なぜなら、命を亡くす悲哀を人間よりも深く知っているからです。
この対比がとても美しく、そして悲しい。

主人公のデッカードは、作中で出会ったレイチェルを愛します。レイチェルもまたレプリカントです。彼女は人を殺していませんが、彼女は自分がレプリカントだと知ると、自分のいた場所から逃げ出します。そして人間は彼女が「逃げた」ために、彼女を「処分」する対象と決めました。デッカードはラストシーン、処分対象であるレイチェルと共に逃げます。彼女の寿命が短いとしても、残りほんと数日だったとしても、彼女と生きることを彼は選んだのです。

そのデッカードの心情を私が理解することはできません。でもブレードランナーを退職していたデッカードは、人と見間違える程に人間らしいレプリカントたちを殺すことに初めから疲弊していました。レイチェルはそのデッカードの心を癒やした。それだけで、彼らがともにある理由になるのでしょう。

人間の定義をどこに置くのか。これまでもSF作品は好んで触れてきましたが、改めて「人とは」「心とは」「命とは」を考える良い作品でした。
この文章を書きながら映画の咀嚼もできたので、また後日、続編の映画も見てみたいと思います。それから、ファイナルカット版も、機会があればぜひ、鑑賞したいと思います。

末筆となりますが、本記事ではWikipediaと映画の台詞を引用しています。
論文は縁遠い存在なので、引用の書き方が間違っているかもしれません。大切にしたいところなので、書き方の間違いにお気付きの方がいましたら、教えていただけますと幸いです。

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