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みんな、すこし野生だった

「みんなすこし野生だった」
と庭文庫から東京へ帰る電車の中でヨウコちゃんが言った。

すこし、野生
というのは庭文庫で過ごした3日間、はたまた私たちそれぞれが今のように生きることになったきっかけが起こったその瞬間からの人生を表す言葉として個人的にとてもしっくりくる。

すこし、野生
それは決して、自由人である、という意味ではなく、
ただ、あの瞬間をのびのびと生きていた、という感じ。
(と私が勝手に感じただけでヨウコちゃんとそこをすりあわせることはないのだけど、それでいいのだ)
この場合の「野生」という言葉の反対語がなんなのかは考えないでおくが、
野生であることがそうでないことより優れているという話では、もちろんない。

私たちはただ、息がしやすい場所を求めている。
私たちは、より自分であることを自分に許すことができる環境を求めている。
そうしてそこにたどりついた私たちはより野生に近づくのだ。

自分をすこし解放させる。
野生であることを自分に許す。

大人とは
男とは
女とは
妻とは
という型から
すこし、出る。

庭文庫は私にとってそういう場所であるし、
すこし野生になることを自分に許すことができれば、
誰にでもそういう場所になりうるんじゃないかな。

私たちは、(というのは庭文庫であの日に集まっていた私たち、そんな私たちのことも実際私は少ししかわかっていないのだけれど、それでも私たちと言うことを許してほしい)、私たちは人生のどこかで、すこし野生になるコツを覚えたんだと思う。

それで、たまたま、あの日ああやって庭文庫に集まって、すこし野生になった。

本当はきっとどこでだって、私たちは、みんな、
すこし野生になれる。

野生でいるのは気持ちいいから。

私は庭文庫で野生でいられる自分がすきだ。


「あんまりにもみずみずしく膨よかな時間だったので、なにを書いたら、なにから書いたらいいのか今はちっともわからない。写真にもちっとも写せない、この気持ちは。だけどそういう日が人生の中に在るということはとても嬉しいことだなと思うし、私はこれからもこの日のことを思い出して、嬉しくなったりもしかしたら寂しくもなったり、おばあちゃんになったら懐かしくもなったりするのだと思う。 」
「なぜなら、人間や人間以外のものたち、生きてあるものや生きてはいないものたち、かつて死んだものたちやいまなお残存して響きあうものたちのあるこの世界において、それぞれの持ち前や、それぞれのありかた、それぞれの生なるものの生えるさまは、あくまでもそれぞれであるからで、そして、さまざまに変化してうまれくるからこそに、その語の意味合いというものがそっと、息を吹き込むものだからなのだろうと思えるのです。」

最後までありがとうございました。