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手書きの日記をSNSに投稿している理由

手書きの日記をSNSに投稿し始めて1ヶ月が過ぎた。

最初はなんとなく、あと1ヶ月くらいで30歳になるし、それまで日記でも書いたらいつか読み返した時に楽しいかもな〜と思って始めた。ノートにボールペンで書いているのは、大好きなからだのお師匠さんに「たまには手で書くといいよ〜」と言われて、以来できるだけメモなども手書きにするようにしている流れだ。

たしかに、手で書くといい。

すっかりはまっている。特にえんぴつじゃなくてボールペンで書いているので、書いてしまったら引き返せないことがいい。それでも出来るだけ頭の中に浮かんだことを素直に書くようにしている。手書きだから編集もできないし、構成を変えることもできないし、誤字を後から見つけてもそのままだ。だから、だから?、日記以上に考察のような思考を書いている部分が多い。あとはノートに書いていると、ページが増えてきているのが実感できておもしろい。もうこんなに書いたのか〜!という感じ。読み返すことはあまりないのだけど、そこに在るというのがいい。もう100ページを越えた。

言葉で検索することはできないし、コピペして引用したりすることもできないけど、不便を感じていない。というか、デジタルで書く以上に、書いたことを覚えていない。こっちで書いたことは、そういえばnoteにこんなことを書いてね、、と誰かに見せたり、別のところに引用を貼ったりすることがたまにあるけど、日記に書いたことをそんなふうに見せることはまだない、ような気がする。あるかな。忘れた。

いつかの日記に書いたことがある気がする、と思いながらその日の日記に言葉を記すこともある。けど気にしない。だって自分がその時に思ったことを書いているだけだから。何回同じことを書いていてもいいのだ。読んでいる人は、こないだも書いていたなーと思うだろうけどね。いいの。これはたしかに日記に書いた記憶があるのだけれど、書くと、「置く」感じがする。そこに、その日に、その時間に、その出来事や気持ちを置いてくる感じ。だから安心して忘れられるというか、書いた次の瞬間には忘れていたりする。というか、書かなくても、いろんな記憶や感情は次の瞬間には忘れてしまうんだなあと思いながら、書いている。

あと、これは手書きかデジタルかにかかわらず、おそらく日記を書いている人は共感できることじゃないかと思うのだけど、その日のことやある日のことを思い出しながら書いている瞬間というのは、確実に時空を移動している。それなのに思い出せないことはたくさんある。不思議。楽しい。

さて、SNSに載せている理由をそろそろ書く。

ひとつ目の理由は、人の目に触れることを前提にして書くくらいがちょうどいいからだ。

誰にも見せない日記(つまり普通のね、ひとりでノートやPCのメモ帳に書き溜めるような)を書いていたことがあるんだけど、つい誰かに見られたら困るような、墓場に持って行きたいようなことを書いてしまって、もし自分が入院したり死んだりした時に誰かに見られたらどうしよう!となって書けなくなってしまった。あと、彼氏のいる空間で日記を書くことができなくて、だけど一緒に住んでいたから一人の時間があまりなくて書くタイミングが見つけられない、という風になってしまった。

だから、誰の目についても困らないことを書こうと思った。で、それだったらSNSに載せちゃってもいいかなと。いや、なんでそこでSNSに載せることにしたんだろうか。載せなくてもいいのにね。自分でもその時の自分がどう思ってそうすることにしたのか思い出せないんだけど、書いてないから、あ、書いていた。

「人の日記を読むのが好きだから、これも公開することにしたんだけど」と2月9日の日記に書いておりました。(これがふたつめの理由)

そう、日記を読むのが好きなんですよね。どうしてかわからないけど。おもしろいなと思う。なんでだろうな。今ここで考察を始めると長くなりそうだからやめておきます。またいつか。

(好きな日記本があったら教えてください!)

だからもしかしたら他にも世界には人の日記を読むのが好きな人がいて、そういう人が面白がってたまに読んでくれたりとかするかな、と思ったんだと思う。あと、最近のSNSは、情報とアドバイスと悲しいニュースとかなんかそんな感じであまり楽しくなくて。だから、そういう人がふらりと日記を読んですこし時間がつぶせたりしたらいいなと思った。

だけど基本的には誰かに読んでもらうために書いていないので、字のサイズも質もバラバラだし、文脈なんてあってないようなものだし、インスタグラムに載せているものに至っては横向きだ。わざわざ拡大して読んでくれている人、ありがとう。

ということで、つまりかなり手書きの日記にはまっている

3月6日の誕生日まで書くことを目標にしていたのに、13日の今日も書いているし、しばらく止めるつもりはない。「自分にとってすっかり日記が整体のような存在になっている」と、2月16日に書いている。

ここで言う「整体」というのは、肩こりをなくすとか足のむくみをとるとかじゃなくて、心が整うやつ。つまり、書くと、落ち着くしすっきりするし、なんだかいい感じになる。だから最近は色んな人に日記を書くことをおすすめしている。

その結果、いまお付き合いしている人が(日記を書き始めてから付き合うことになった!)日記を書いて、見せてくれるという展開になっている。好きな人から日記が届くのすごく楽しいのでやってみてほしい。それぞれで書いているので交換日記とはすこしちがう。そのあたりも別のnoteで書こうと思っている。

自分の感情や考えていることを言葉にして誰かに伝えるのがすごく苦手だった。だけど、日記を始めたおかげか、偶然か、最近はずいぶん口に出せるようになった。わたしが言ったりやったりすることを、誰がどう思おうと、結局はわたしが生きているのはわたしの人生なのだよなと思ったりする。それを好きだと言ってくれる人、面白がってくれる人とたのしく生きていけたらそれで幸せだな。

なんてちょっとまとめっぽいことを書いてみる

自分のために書いている手書きの日記にはまとめが必要ない。それも書き続けられている理由かもしれない。noteに書こうとすると、どうしてもまとめが必要な気がするし、「これは誰のために書いているんだろう」と考えて手が止まってしまう。

あ、あと、思いがけず「読んだよ!」とか「こないだの日記で書いてたあれさ、」とかってDMをもらったり会った時に話してもらうことが発生していて、棚からぼた餅!という気分になれるのも続いている理由かもしれない。誰が読んでいるのかわからないのがいい。誰も読んでいなくてもいい。

そうだ、あと、ここにも書いたのだけど、

みんなにそうなろうよ!と言いたいわけでもなく、ただただわたしがなりたいのはこういう存在かも!と思っただけのこの文章を誰に向けて書いているのか見失ってしまった。よく見失って、結局公開しなかったりする。そんなのが下書きに溜まりまくっている。こういうのを有料にしたらいいのかもしれないな。そうしたら、、うーん、ほんとに?だから紙にペンで書く日記がしっくりきたのか。あそこに書いてあることは、自分のことで、自分に向けて書いていて、読もうと思って写真をひらいた人しか読めない。その距離感がちょうどいい。有料でもクローズドでもない。だけどすこし段差がある感じ。

この「有料でもクローズドでもない。だけどすこし段差がある感じ。」がすごくしっくりきている。


最後までありがとうございました。