【読書】暇と退屈の倫理学

「暇と退屈」を哲学的に考察し、それと付き合う生き方を提示するユニークな一冊です。

「そもそもなぜ人は退屈するのか?」という問いに対して、人類は定住革命によって時間とエネルギーを持て余すようになったからという仮説が述べられています。本書の表現を借りるなら「遊動生活がもたらす負荷こそは、人間のもつ潜在的能力にとって心地よいものであったはず」なのだそう。この議論は説得力があるなと思いました。

そして「退屈する人間は苦しみや負荷を求める」ようになり、娯楽に時間を費やそうとするようになります。本書では「ウサギ狩り」が例として取り上げられています。この時、狩をする人の欲望の対象は確かにウサギですが、その欲望の真の原因は「部屋にじっとしていられないこと」であり、したがって本当に求めているのはウサギではなくて「気を紛らせてくれる騒ぎ」なのです。ここらへんの論理展開も実感と合っていて納得できます。

次に、「退屈には種類がある」という議論に移ります。退屈には三種類あって、それぞれステージが違うだけで連環している、という議論。第一の退屈は「何かによって退屈させられる状態」で、たとえば駅で電車を待っている時間などです。第二の退屈は「何かに際して退屈する状態」で、たとえばパーティーで社交的な会話を繰り返す気怠さなどがそれです。そして、第三の退屈は「なんとなく退屈な状態」です。

連環は、第二の退屈(暇ではないが退屈している)→第三の退屈(なんとなく退屈だ!)→第一の退屈(退屈を逃れようと始めた何かに退屈している)という過程をたどります。

出発点は第二の退屈状態で、そこでは気晴らしと退屈が絡み合っています。退屈を払いのけるはずのものが退屈になっている。著者曰く、「生きることとはほとんど、それに際すること、それに臨み続けること」だそうです。その退屈を普段はやり過ごしているのですが、何かの弾みでその退屈に耐えられなくなった時に、第三の退屈状態に達します。そして、そこから逃れようとして、新しい何かを始める。本書では、「一つの環世界から別の違う環世界に飛び込む」という表現がされています。そして、愚かな人間はその何かに結局退屈することになり、第一の退屈状態に陥ります。

人間は普段、第二形式がもたらす安定と均整の中に生きている。しかし、何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられる時がある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。その時に、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心となり、ただひたすら仕事・ミッションに打ち込む。それが好きだからやるというより、その仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る。
ハイデッガーはそうしたあり方を指して「狂気」と言ったのだった。それは、好きで物事に打ち込むのとは訳が違う。自分の奥底から響いてくる声から逃れるために奴隷になったのだから。
おそらく多くの場合、人間はこの声をなんとなくやり過ごして生きている。そのために退屈と気晴らしとの混じり合いの中で生きている。そうして「正気」の生を全うする。

第二の退屈と第三の退屈のジャンプがちょっと無理やりな気もしますが、まあまあ分かります。

ここで、退屈と付き合う生き方として「環世界」が重要なキーワードとして登場します。環世界とは、当該主体が属する固有の世界です。動物は動物の環世界を、人間は人間の環世界を生きています。また、人間の中でも、若者は若者の、小学生は小学生の、1年生は1年生のそれぞれの環世界に属しています。そこでは習慣化された生活を送り、思考を強要されることなく日々を安定的に送ることができます。そして、一つの環世界に囚われている限りは、退屈は存在し得ません。動物は退屈しない。しかし、人間には悲しいかな「選択の余地」があります。つまり、人間は環世界間をかなりの程度自由に移動できます。ゆえに退屈する。

人間は環世界を生きているが、その環世界をかなり自由に移動する。このことは、人間が相当に不安定な環世界した持ち得ないことを意味する。人間は容易に一つの環世界から離れ、別の環世界へと移動してしまう。一つの環世界にひたっていることができない。おそらくここに、人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある。人間は一つの環世界にとどまっていられないのだ。

人間は動物のように環世界に安住する(囚われる)ことができません。自分の置かれた状況が安定していると退屈してしまうから、状況を不安定にするために何らかの変化が必要で、その変化がもたらす不安定は一時的に気を紛らわしてくれますが、いつかは自分にとって安定的なものとなってしまうので、また別の変化を引き起こすか別の環世界へ移動し・・・。

すると人間にとって、生き延び、そして、成長していくことは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ、自分なりの安定した環世界を、途方もない努力によって、創造していく過程と言った方が良いだろう。
人間の環世界の中で大きなウェイトを占めているのが、「習慣」と呼ばれるルールである。習慣というと、毎日の繰り返し、ある種の退屈さを思い起こすかもしれない。それこそラッセルは退屈を、「事件を望む気持ちがくじかれたもの」と定義していたが、習慣という言葉にはこのラッセルの定義に通ずるところがあるようにも思える。
しかし、人間の環世界が習慣に影響を受けるものであり、そしてそれぞれの環世界は途方もない努力によって獲得されねばならないのだとしたらどうだろう?習慣に対する見方は一変するはずである。習慣とは困難な過程を経て創造され、獲得されるものだ。習慣はダイナミックなものである。
しかも、ひとたび習慣を獲得したとしても、いつまでもそこに安住はできない。習慣はたびたび更新されねばならない。[中略]習慣を更新しなければならない。私たちは絶え間なく習慣を更新しながら、束の間の平穏を得る。

途中の内容を一部省きましたが、大雑把には以上のような内容の一冊です。

著者が議論の最後に提示する生き方は、『人間であることを楽しみ(贅沢の浪費及びその準備)、動物であることを待ち構える(思考に没頭することを楽しむ)』という内容です。

ですが、僕は本書を読んで、暇な日常を生き、退屈に浸っても良いかもなと前向きに思えるようになりました。もともと暇も退屈も大嫌いなのですが、酒場でビールを飲むアメリカ人も、路上で囲碁を打つ中国人も、子守をするエスキモーも退屈な時間を送るものなのなら、「暇な時間を退屈に過ごす環世界」でだらだらするも悪くないなと思いました。

気を紛らわせたくなったら、新しい何かに飛び込めば良い。「私たちは絶え間なく習慣を更新しながら、束の間の平穏を得る。」



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