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ハルキ模写によって分断された世界の交わりについて

私はたまにハルキ模写をやる。
それは何かというと、村上春樹風に文章を書くことだ。17歳の頃より、村上春樹を読んできた私にとって、それはたやすいことだった。

特別なトレーニングをした意識はなく、自然にハルキ模写をすることができた。それはあくまで模写であり、村上春樹の亜流の文章作成のつもりはない。いわゆる村上春樹の文章ものまねだ。どんなに歌がうまいものまね芸人でも、それは本物でない。あくまでものまね芸人たるもの、本物はリスペクトしなければならない。

まあ、私はそういう軽い気持ちでハルキ模写を楽しんでいる。だから読み手には「これはハルキ模写ですよ、分かってますよね」という前提を持ってもらいたいと思っているし、分かると思っていた。(村上春樹より大袈裟な比喩を使っているつもりだし、わざとキザに書いている」

だが最近、それが分からない人が出てきた。村上春樹はおろか、本を読まないという若い人だ。私はクラウドシティにアップしているようなハルキ模写をよく会社のSNSにアップする。控えめにいって評判はいいし、たまに顔を合わせたときに私がアップした文章の話をしてくれる。それはとても嬉しいし、また書こうという思いになる。

だけど、こう言われる。

「前田さんの文章の特徴って、リフレインが多くて、比喩が独特ですよね」

それを言われると私は素直に喜ぶことはできない。これはハルキ模写なんだ、私のオリジナリティではないのだ。
だが、村上春樹を知らない若人たちに、それが伝わらない。
このままいつか彼らがネット上に溢れるハルキ模写に触れ、私のやってることが盗作なり、パクっていると思われても面白くない。

「これは僕が作った文章であって、実はそうではない。村上春樹という世界的作家の文章を模写しているだけなんだ」

若人は首を傾げた。

文章? 模写? 世界的作家? ただの小説にどんな価値が?

説明しなければならないことはたくさんありそうだ。この文章もハルキ模写なのだが、分かる人には分かって、分からないという分断された平行線の世界が続いている。どこかでこの世界は交わらなければならない。知識というものが人の視野や活躍の場を広げるように啓蒙活動に取り組む必要がある、私はそう思った。

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