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諸行無常

高校のとき、体育にバトミントンがあった。
バトミントンの授業には実技テストとかは特に無く、成績はすべて試合で決まった。そして、先生は、極端に言えば試合内容を見る必要はなくて、授業最後に誰がどこのコートに居るかで成績がつけられてしまうのだ。
その授業は、2人で1チーム、6面のコートで成り立っていた。6面のコートはそれぞれSα、α1、α2、β1、β2、γと名前がついていて、最上位のSαから最下位のγに向かってランクが下がっていく仕組みだった。授業の最初はランダムに各コート2チームずつに振り分けられるが、一回の授業で5分の試合が計5回行われ、すべての試合が終わった頃には、必ず強いチームがSαのコートにいるのだった。
これは単純なシステムで、勝つと上へ、負けると下へコートランクが下がる、ただそれだけ。
引き分けは、無理矢理ジャンケンで勝敗を決めた。つまり、どんなことがあろうとも、このシステムでは試合の度にコートが変わるのだ。勝てば上に、負ければ下に。同じコートで連続して試合をすることはない。Sαでもγでも、トップとドベの3チームが交代で試合をするため、連続になることはまずなかった。
だから、どんなに戦いたくなくても、同じ位置を願ったとしても、程よいところで手を抜こうと思っても、それはできないようになっている。毎回毎回、それ以上 下に行きたくなければ勝たなければならない。それ以上 上に行きたくないなら落ちるしかない。動きたくない、変わりたくない。そんな希望は叶えられない、巧妙で残酷なシステムだ。
それが私にはまるで、人間関係のようで。先生はきっと社会を覗き込む、神様のようなポジション。この世界の人間関係を定めた人。私達生徒は、生徒同士の関係を、だったその場で試合をする事で決めなければいけない。まるで社会の中で起こる様々な要因が"試合"という名前で単純化されたように。私達は社会というコートの中で、日々起こる出来事を強制的な試合のようにこなさなくてはならなくて、その結果は絶対に起こる前とは何かが変わっている。
変わらないでいる、なんてことはできない。
神様が時間というルールを決めてしまっている限り、人は何かを変えながら生きていく。

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