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信長が初めて築城した城は?

こんにちは!hm384352です。
今回は織田信長が清洲城の次に入城した城郭についてお話していきます。

この城郭、実は信長が居城する城として初めて建てられた城郭であります。しかし、信長が初めて建てた城にも関わらずわずか5年ほどでその役目を終えて歴史の表舞台から消えていきました。

信長が本能寺の変で倒れた数年後にある戦いでもう一度歴史の表舞台に登場しますが、あくまでも陣城として利用されただけで、加えてこの時山の大改修も行われている為、信長時代の遺構は消えてしまったかのように思われていました。

その為このような戦いに利用されただけのお城としての認識が強く、発掘調査をしても「何も出てこないのだから無駄」と言われてしまう有様でした。しかし、実際に発掘調査を行なってみると、、、戦いに利用されただけでなく信長時代の遺構と思われるものが次々に発見され、この城は平成に入ってから再び歴史の大舞台に戻ってきたのです!


信長が築城しその後戦いの為の陣城として改修された城郭、それは小牧山城です!
それでは早速小牧山城の歴史から見ていきましょう!

小牧山城は現在の愛知県小牧市にある城郭で、永禄6年(1563年)、信長の命により築城が開始されました。ちなみに信長が城を建てる前の小牧山の歴史に関する史料は少なく、小牧山城は信長にとって初めての山城となりました。信長がこの小牧山を選んだ理由としては京への上洛通過点となる美濃国(岐阜県)を併合する為に美濃を攻める拠点を造りたかったのです。それまで居城していた清洲城が平城であったことと、清洲城が尾張の南に位置し、美濃を攻めるには距離的に遠かったことも移転した理由でもありました。

現在、小牧山の頂上には模造天守が造られ、麓には「れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)」が建てられており、自然豊かな場となっていますが、信長時代の城郭はどのようなものだったのでしょうか。

城は山全体に築城され、これまでの縄張り研究では山頂に主郭地区、正面に当たる大手曲輪地区、本丸の西に当たる西曲輪地区、大手口西側の西部帯曲輪地区、西裾に当たる西側谷曲輪地区、家臣団屋敷の東部帯曲輪地区の6つの地区で構成されていたと記されています。

そんな小牧山城、縄張り構造も研究から判明してきたことでありどのような城郭であったかはほぼ分かっていませんでした。何故縄張りや諸々のことが分かってきたのか、、、ここからさらに詳しくお話します。

先程もお話した通り、小牧山城は美濃国を攻める軍事拠点であり、信長の死後は大改修されました。そして実際小牧市民から「何も山からは出てこないからやめろ」と言われていましたが、発掘調査はその考えを見事に裏切る成果を出したのです。

平成18年(2004年)から小牧市の史跡整備に伴う発掘が行われました。これが最初の発掘調査です。この時に小牧山山頂部から信長時代のものと推測される石垣が出土しました。「何も出てこない」と言われ続けてきた山から石垣が検出されたことにより、小牧山城は一気に歴史の大舞台に名を連ねることとなったのです。

この年以降の調査でも毎年成果があり、どれも大きい成果ですが、注目されたのは平成22年(2010年)の「佐久間」と墨書された石材の発見、平成30年(2018年)、主郭(本丸)近くに屋敷建物があったことを示す礎石や玉石敷の検出、遺物としても天目茶碗や青磁が出土したことです。特に2018年の調査結果は、小牧山山頂一帯に信長一族の居宅があったという可能性を示した成果でした。

時代が令和に入った今でも小牧山の発掘は続いています。令和3年(2021年)11月には城の本丸へと続く「登城路」の幅が約10mで、登城路は山を掘削して造られた大掛かりなものだったことが判明しています。さらにこの登城路は山の岩盤を掘削して造られた他、道の壁面には石垣が積まれていたことも教育委員会の調査で判明しました。この道は大手道と呼ばれる道で、壁面に石垣が積まれていた範囲というのは、大手道全体ではなくより主郭部に近いところのみでした。これは信長やその一族が居城していた場所、つまり主郭部をより強固に守るため、もしくは信長の権力の象徴としての石垣であった可能性も推測されています。

また小牧山城の大手道は入り口から約150mは直線的に造られ、道幅は約5.4mであったことも判明しています。信長が小牧山城の次に居城した岐阜城には宣教師ルイス・フロイスが永禄12年(1569年)に訪問しており、その際に「途切れることのない岩の壁が連なっていた」と登城路について『日本史』に記しています。また信長最期の城、安土城の大手道も小牧山城と同様の構造となっています。このことから、小牧山城で用いられた建築要素が後の城のルーツにあたると考えられています。

現在も小牧山城の発掘は進められていますがこれまで小牧市教育委員会が行った発掘調査成果は現地説明会という形で一般公開された後、文化財保護の観点から埋め戻しされています。しかし、発掘が行われたポイントには看板が設置され、麓には「れきしるこまき」という情報館が建てられ、小牧山に登る前に小牧山を取り巻く歴史を模型や映像を使って紹介しており、小牧山城の概要を掴めるようになっています。

また小牧山頂上にある歴史館ではこれまでの発掘調査で実際に出土した遺物や解説パネルでの常設展示がされています。現在は2023年3月31日まで休館となっていますが、小牧山に登ることは可能です。是非、小牧山城に戦国時代を感じに行ってみてください!


小牧山城復元絵図
「佐久間」と墨書された石材

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