仮講義「松浦寿輝の表象文化論」(Leçon 9)

「「主」と「客」という対立概念がある。家の内に住まう「ぬし」「あるじ」がおり、外から訪う「まろうど」がいる。人は或るときには「主」として「客」を迎え、或るときには「客」として「主」の歓待を受ける。思い返してみれば、これまでの人生で、すべてはそんなふうに進行してきたのではないか。性や食のような根源的な生命活動から、認識や表現といった精神的営みに至るまで、誕生から死に至る人間の生活世界の無数の体験は、結局はことごとくこの「訪問」と「歓待」の、交替や逆転や補完の構造に還元されるのではないだろうか。だがそれも、内と外とが、もてなす側ともてなされる側とが明確に分かたれていることを前提としたうえでの話である。自分が「ぬし」なのか「まろうど」なのか自体がふと混乱したならば、いったいどうしたらいい。」

松浦寿輝『黄昏客思』文藝春秋、2015年、7~8ページ。

阿部良雄先生、渡辺守章先生、蓮實重彦先生――と松浦さんの3人の「先生」についてみてきました。ぼちぼち、松浦さんご自身のテクストに戻っていきたいと思います。今回が9回なので、一応、1ゲーム目終了ということで、次回は簡単な「振り返り」を行います。ですので、今回の主題はこれまでの8回とのバランスで決めました。

冒頭に引いたのは『黄昏客思』というエセー集の巻頭論文からです――ちなみに、松浦さんには『青天有月』という名エセーがありますが、その続編にあたるようなものです。

これは、2012年8月~2015年8月に『文學界』に連載でしたか…。個人史を簡単に整理すると、2012年3月に松浦さんが退職した後、わたしは4月に修士課程に進学。2014年に博士課程に上がり、1年ほど学内の哲学センターで国際交流に励み、2015年8月末にフランスに発つ、という流れです。少し感慨深いのは、1年間の国際交流に「消尽」したわたしは、留学前、授業などには顔を出さず、自宅で「読書」の時間を取り戻そうと試みていたのでした。そのときにまとめて読み直していたのが(当時取り組んでいた)クリステヴァ、そして(揃えてはいながら未読のものもあった)松浦寿輝さんだったのです。(その後、留学先で松浦さんに「再会」するなんて考えもしなかったですけどね…。)

その3年間は、結果的に、わたしが一番熱心にサルトルに取り組んでいた時期でもありました。そして、もはや松浦先生がいない大学院で勉強していた一「表象」の院生の元に不意に届けられたのが、冒頭で引いたエセーだったのです。「主客消失」と題されたそれは、引用個所の後、サルトルの『嘔吐』の読解に向かいます――どうして、あの時、『文學界』なんか手に取ったのか、不思議ですけどね。2013年に提出された修士論文「可傷性とモノローグ ジャン=ポール・サルトルと実存的救済」でも参照されています。

読みやすい文章なので、是非、読んでいただきたいですけどね。要は、西洋思想における「主客」の問題――subjectとobjectの問題――を『嘔吐』を使って再考しているわけです。すでに書いた通り、サルトルの哲学は「主体」の哲学と言われ、批判されることも多い――ナンシーらによる『主体の後に誰が来るのか?』(現代企画室、1996年)なんていうのもあります。『嘔吐』の語り手ロカンタンは、まさに、「もの」との関係の内で「吐き気」をおぼえるわけです。わたしが石に触るのはいいが、石がわたしに触るのは許せない、みたいな話になる。苦笑 有名なマロニエの木のエピソードとか、少女が暴行されてとか、手を切ってとか、色々なエピソードがあるのですが、ひとつのポイントとして、「もの」(objet)の存在によって「わたし」(sujet)の存在が揺らぐことで「吐き気」が生ずるという構造があるわけです――ところで、思い出したので書きますが、「吐き気」(nausée)というのは語源的には「船酔い」から来ています。フーコーが考察した「統治」(gouverner)は船の「操縦」から来ていますね。少し前に「演者と舞台」という仕方で両者を比較しましたが、「船」というトポスを巡っても、両者の比較を展開することができるかもしれません――これ、佐々木中さんの『夜戦と永遠』を読んでいて思いついたんですよね…。

とにかく、そういう話です。笑 つまり、この時期のサルトルが考える「吐き気」というのは「客」におびえる「主」の病なのではないか、という議論です。で、松浦さんご自身は、もっと積極的に「客」になってしまえばいいではないか、という提言をするわけです。半分冗談ですが、一種の「オブジェクト指向存在論」と言ってもいいかもしれませんね――これは、もちろん、グレアム・ハーマンらの哲学を念頭に置いています。もっとも、松浦さんのエセーはかなり人間的にとらえることができますけどね。ちなみに、ハーマンも一応サルトルに触れています。メイヤスーなんかもそうですね。博士論文の冒頭でサルトルの「偶然性」に目配せを送ります。わたし的には、なので、「思弁的実在論」は「サルトルのラディカライズ」でもあるわけです…。

ちなみに、一応説明しておけば、西洋思想ではsubjectとobjectが「主体」と「客体」と訳されます(後者は「対象」と訳されることもあります)。英文法の5文型の「主語」(S)と「目的語」(O)もこれですね。「わたしが石を拾う」などという文章では、「わたし」が「主体=主語」であり、「石」が「客体=目的語」なわけです。しかし、「わたしが石に触れる」はどうでしょうか。少し微妙になってきます。メルロ=ポンティの「身体」の「現象学」なんかにある通り、「触る」という体験はしばしば同時に「触られる」ことを意味します。それこそ、「主客」の二項対立が「脱構築」される――「脱構築」というのは、本来、ハイデガー由来のデリダの表現で、メルロ=ポンティは使いませんけどね。ここでは応用して使っています。「わたしが石に触れる」は「石がわたしに触れる」に「逆転」可能かもしれません――これは、確かに、ちょっと不気味ではありますけどね。(ちなみに、「不気味なもの」というのも20世紀の美学では重要なキーワードです。フロイトとハイデガーですね。小田部胤久先生の『西洋美学史』などをご参照ください。)

つまり、主客の関係が「逆転」するとひとは「困惑」するわけです。サルトル哲学というのは、確かに、こうした問題を考えるのにヒントを与えてくれます。一番わかりやすいのは「まなざし」の問題ですね。「主体」は「客体」を見ます。このとき、「見られる客体」の――「身体」の――「可傷性=ヴァルネラビリティ」が問題になるのですが、これもまた、上述の「吐き気」の構造と対応しているわけです――ちなみに、一時期わたしが専心していたのがこの問題です。『存在と無』の一節を手掛かりに、バトラーなどとも比較しつつ、「可傷性=ヴァルネラビリティ」について色々と考えたのでした。本日の推薦図書は、思い切って、『存在と無』にいたしましょう。ちなみに、これが「サドマゾヒズム」の問題にもつながっていくわけです。

サルトルの「まなざし」の哲学は、その後、色々な風に変奏されます。パートナーだったボーヴォワールは「男にみられる女」という観点からフェミニズムを展開します。フランツ・ファノンは「白人にみられる黒人」という観点からポストコロニアリズムにつなげます。サルトル、ボーヴォワール、ファノンを踏まえ、それをデリダやフーコーを使って「脱構築」していくのが、バトラーのクィア理論です。ちょっと雑な説明ですけど、サルトルの「実存主義」はこんな感じで英語圏の「スタディーズ」に引き継がれていく面があるわけですね。ハイデガーやその影響下にあるフランスのポスト構造主義の思想家たちはサルトルを認めなかったんですけどね…。でも、サルトルはサルトルで、何かをリブートした部分もあるのではないか。日本では、見田宗介さんに『まなざしの地獄』というテクストがあり、2008年に書籍化された際には大澤真幸さんが解説を書いておられます。(ちなみに、Leçon 3で出てきた『時間の比較社会学』の「真木悠介」は見田宗介の別の名前です。)

サルトルについては色々考えることもできるのですが、まさに、上述のような根本問題をうまくついたのが松浦さんの「主客消失」な気がいたします。「家」の問題に注目しているのも面白いですね。「主」は「客」を「歓待」するわけです――この辺りは少し、デリダ的でもありますね。『歓待について』は最近文庫版も出ましたのでご覧ください。フランス語では講義録も出てきましたね。あと、「歓待」というのは、もともと、クロソウスキーなんかも考えていたことです。(ついでなので、『謎・死・閾』にクロソウスキーについての論考があることもマークしておきましょう。これは、むしろ、「シミュラクル」の問題について、ですけどね…。)

さて、ここで少し補足すると、おそらく松浦さんは読まれていないサルトルの本に『家の馬鹿息子』があります。フローベール論ですね。まさに、「家族」、「家」の問題ですね。フローベールはいわゆる「癲癇」の発作に悩んでいた時期があったようなのですが、要するにときおり倒れてしまうわけです。「ポン=レヴェックの落下」なんていう有名なエピソードもあります。立ったり座っている状態から地面に向かって「落ちる」わけですね――サルトルは、これを、カミュの『転落』(La chute)なんかと比較しています(そもそも、サルトルは「原罪」(La chute originelle)なんかにも憑りつかれていました)。これも「頭」(≒主体)が落ち「石」(≒客体)みたいに地面に転がる、なんて考えれば「主客」の「逆転」とみなせるかもしれません――バタイユの「足の親指」なんか思い出してもいいかもしれませんね。これは『ドキュマン』をご覧ください。江澤健一郎さんの訳で河出文庫に入りました。

で(笑)、とにかくフローベールは「落下」するわけです。すると今度は「ドムス」になるとサルトルは読む。笑 つまり、「家」になると。要するにちょっと引きこもってしまうんですね――サルトルには「幽閉」というテーマがあります。戯曲「アルトナの幽閉者」というのが有名ですが、これはおそらく、ジッドの『ポワチエの幽閉者』を模倣しています(後者については、バルトもセミネール『いかにしてともに生きるか』で取り上げています)。つまり、サルトルによればフローベールも「半‐幽閉」状態にあり、これが「読書」の経験、さらには「執筆」の経験に繋がっていく、という話になります。個人的には、『家の馬鹿息子』第2巻(邦訳2~4巻に相当)の一番面白い箇所です。まあ、誰も読まないでしょうが…。苦笑

となると、サルトルの思考には「上下」の運動、「内外」の運動があることになります。これは、わたしの文章を読んだトリスタン・ガルシアさんが指摘したことですが、サルトルの思考は「トポロジー」的で「構造」的なわけです。で、いま松浦さんの「主客消失」を読み返すと、すでに、そのことがきちんと書かれているわけです…。苦笑 そういった意味でも、わたしのなかでは松浦さんとガルシアさんが結び付いてくるのです(よければ、『激しい生』の「あとがき」もご覧ください。)

しかし考えてみれば、わたしの修論はジャコメッティの「檻」(La cage)で、やはり空間の「内外」が問題になっていたわけです。ある個所でサルトルのジャコメッティ論を引いたのですが、思えば、そこが論文の肝であることを見抜いてくださったのも松浦さんでした。「ジャコメッティの檻」から「サルトルのトポロジー」へ。こう言ってよければ、わたしの初期の仕事は「実存」の「構造」みたいなねじれた思考に割かれていたのですが、そのことを再認識させてくれたのがふたりの「表象文化論の小説家」だったわけです…。ちょっと、久しぶりにガルシア先生も読みましょうかね。笑

やはり、サルトルが絡むと少し熱くなりますね。しかし、色々先行研究を読んだ後でも、松浦さんのこのエセーは秀逸なサルトル論だと思います。ぜひ、ご覧いただければと思います。

そのほかの論考ですと、「北のサルトルと南のカミュ」なんていう比較をしているエセーもありました(『黄昏客思』、147ページ以下)。あと、守章先生のジュネに絡めて、サルトルの『聖ジュネ』に触れたテクストもあったはずです――ジュネの「仮象」をサルトルは問題にするわけです。で、守章先生が訳された戯曲「女中」なんかに注目しつつ、ジュネの内にヘーゲル的な「弁証法」とは異なる、「回転装置」(tourniquet)の構造を指摘することになります。ここでサルトルがヘーゲルを使ってジュネを読んでしまったものだから、若き日にこれを読んだデリダが後に『弔鐘』なんていう変な本を書いてしまうことになるわけです…。

あと面白いのは、やはり『方法叙説』です。画家のヴォルスへの偏愛を語る文脈でサルトルの論考に触れられています――サルトルの芸術家論としては『シチュアシオン』に所収のジャコメッティ論やヴォルス論が重要ですが、わたしはジャコメッティ派、松浦さんはヴォルス派、なんて対置してみても面白いかもしれません(ヴォルスについては2017年に川村記念で回顧展がありました)。あと、もうひとつ興味深いのが同書98ページ。20歳のころ、『存在と無』や『出口なし』を手掛かりに「他者論」を構想していたという! 結局はブーバーが面白いという話になっていくのですが、わたしが修論で取り組んだ問題を松浦さんも「通過」していたというのは嬉しい偶然でした…。きっと、わたしも芥川賞取るでしょう。笑

なので、簡単に整理すると、松浦さんの思考を下支えするのは、基本的には、反サルトル的な思想家にみえるわけです――バルト然り、フーコー然り、ラカン然り、ブランショ然り、デリダ然り…。あるいはサルトル以前の作家ですね――プルースト、ヴァレリー、マラルメ、ブルトン、ベルクソン…。『謎・死・閾』の目次をみれば明白です。しかし、『方法叙説』という自伝的エクリチュールから伺えるのは、そのようなテクストの下に、「松浦寿輝の実存主義」が垣間見えるということです。

まあ、初期のサルトルが考察した問題って、基本的には、誰もがどこかでぶつかるものな気がしますけどね…。特に、10代~20代は「他者」とか「身体」とか「まなざし」とか、それがすべてと言ってもいい…。まあ、いずれにせよ、サルトルというのは、結局、よくも悪くも近現代フランス文学・思想の入門的役割を果たしますので、「通過」しておくのは悪いことではないです。フランスに行っても、大体のフランス人は高校とかでサルトル読んでいますから、雑談のネタにもなります…(もっとも、「研究」としてやることが沢山残されているかというと少し微妙ですが…。草稿研究くらいでしょうか…。参考までに、草稿研究チームのリンクを貼っておきます:http://www.item.ens.fr/sartre/)。

まあ、所詮、これは「わたしの松浦講義=表象」でしかありません。わたしのパースペクティヴは限られたものでしょう。ぜひ、みなさんも自分の「入口」を見つけ、松浦寿輝という「文学空間」に飛び込んでいただければと思います。

それでは、本日は以上にいたします。

栗脇


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