優しさスタンダード

昨日は曽祖父の命日だった。

大正11年生まれの祖父は令和元年に入った5月に息を引き取った。最後まで頭がボケずにはっきりとしていた曽祖父は、本当に尊敬していたし、今でも大好きな存在であることは変わりない。

だから帰り道、花を買った。小さいブーケ。

お腹が空いたからいつもの行っているお店でお酒を飲んだ。その花どうしたのって言われたから「曽祖父の命日だから自分で買った」と言った。
そしたら「優しいねえ」と言われた。これが優しさなのだろうか。
死者を忘れたくないという気持ちは優しさなのかは分からない。ただ私は忘れたくないだけなのに。

店でサバ缶グラタンを食べた。ここのサバ缶グラタンは本当に美味い。クラッカーも画期的。ゲームをしたりみんなとお話したりして終電で帰宅。0時を越えていたが起きていた母にもその花どうしたのって聞かれたから「過ぎちゃったけどじいちゃんの命日だから」と言ったら。「あら、優しいね」と言われた。別に優しいとか関係なくないか?

眠かったからブーケをそのまま机に置いて寝た。翌朝花瓶に入れようと思って花を持って居間に降りた。祖母(その曽祖父の娘にあたる)が起きていて、その花どうしたのと聞かれた。

「昨日おじいちゃんの命日だったから」
「あらありがとう、優しいのね」

また言われた。優しさの基準って難しい。

いつも優しいと言われる時は、その人に何か施しを与えてその人が利益を得た時だと思っていたけど。(多分違う)
私は曽祖父のことがとても好きだったし、だから花を買っただけなのだが。そこに優しく思われたいという感情を一切伴っていないから違和感を感じだのだろう。

曽祖父の方がよっぱど優しかったと思う。

亡くなる直前、もう長くないだろうと医者が判断をして曽祖父が病院からうちに居ることになった。もう意識もはっきりとせず、ただ浅い呼吸をしている曽祖父が部屋のベッドで寝ていた。
もう時期くるであろう別れが嫌でたまらなくて、家族が寝静まった後、私は曽祖父の横で毎晩泣いていた。
泣いている私が分かったのだろうか、意識があるのか無いのか分からない曽祖父は私の手を2回叩いた。
驚いて思わず涙が止まって曽祖父の顔を覗いて見ても、開いていない目と浅い呼吸が繰り返しているだけだった。
おそらく私は余命が近い曽祖父に、励まされた。その数日後に彼は息を引き取った。
それが曽祖父から私への最後の優しさだったと思う。

あれから3年が経ったらしい。
別にじいちゃんに対して誇れることは何もないし、言えることはただ生きていることくらい。もっと話したかったなあと割といつも思ってる。

この3年で身近な人やペットが結構逝ってしまった。
私は死後の世界とかあまり信じる質ではないけど、曽祖父の行き場を考える時に天国のようなものが存在しないとこちらの気持ちが休まらない。

だからいつも思ってる。「またそのうちどこかで。」


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