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【福岡歴史白書】平野国臣という男

万民平等を目指した志士

平野国臣は1828年に生まれた。月形洗蔵とは同い年である。共に筑前(福岡)での尊王攘夷活動では頭角を現すことになる2人だが、その身分には大きな差があった。国臣の家は足軽の身分であり、藩主へ直接謁見できる立場ではない。一方、洗蔵は馬廻組百石、祖父の月形質は藩主の侍講を務めた程の人物である。

父の平野吉蔵能栄は武術師範として多くの門弟を指導するも、武士としての階級は低いため武道場では師弟関係にあっても、一歩道場を出れば立場は逆転してしまう。どれだけ文武両道であっても生まれついた身分が出世を許してくれない。どれだけ武が洗練されてなくても、知識がなくても生まれついた身分が高ければ出世ができる。

現に洗蔵は然るべき手段を取り藩主へ謁見し建白書を提出しているが、国臣は藩主への意見をする為に外出時に待ち伏せをするしか方法がなかった。結果、取り押さえられ蟄居処分となってしまった。

そんな環境の中で生まれ育った国臣は万民平等を目標に掲げ、倒幕活動へと踏み切った。

この思想が国臣を動かすエネルギーとなり、後に筑前人の中では朝廷に知られる唯一の人物までになった。

国臣の身分では初めから藩内での出世のは不可能。だからこそ彼は脱藩には抵抗がなく日本を駆け巡れたのかもしれない。


「我が胸の燃ゆる思いに比ぶれば煙は薄し桜島山」

過激とも思われる一方で国臣は優れた詩人でもあった。野村望東尼とも歌のやり取りを行っている。

そんな国臣の歌で有名なのが「我が胸の燃ゆる思いに比ぶれば煙は薄し桜島」だ。

文字の並びだけ見ると、愛おしい人への思い。恋の歌かなとも思える。

実像は、倒幕へ踏み切らない雄藩薩摩藩への憂いや怒りを込めた歌だ。

当時の薩摩藩の思想は公武合体。国臣の考えを受け入れる訳にはいかなかった。国臣も国臣で、その事はわかっていたが薩摩藩の力なくして倒幕は不可能だと思ったのだろう。自分1人の力ではどうすることもできない歯痒さ。そんな想いも込められているのかもしれない。


どこまでも愚直に生きた男

国臣は様々な人々との交流や活動を通じて、ついには学習院(公卿の学校)への出仕へ抜擢されるほどになった。当時、学習院は諸国の志士を取り扱う所で、朝議を左右するほどの力を持っていた。この大出世に国臣は父へ喜びの手紙をしたためている。

しかし国臣の喜びを打ち砕く事態が発生する。文久の政変だ。

これまで尊王攘夷活動のエース的存在であった長州藩が京を追い出された。自分の目標への実現が遠ざかってしまったが国臣は諦めずに倒幕の兵を生野で挙げた。

ふるさとの福岡にいる月形洗蔵たちへ決起を呼びかけるが、その頃すでに薩長和解への道を思い描いていた洗蔵にとっては決起は賛同できる手段ではなかった。

また決起の部隊は農民が中心となっていたが、それ故に統率が取れずにあっけなく敗退してしまった。そして国臣は捕縛される。

捕縛されてから約1年後に禁門の変が起こった。この混乱に乗じて獄舎にいる者たちの逃亡を防ぐためにという口実で国臣を始めとする囚人たちは処刑されることになった。

この時に国臣のいる獄舎へやってきたのは新選組だといわれている。

国臣は逃げることもなく槍に手をかけ辞世の句を詠みあげた。

憂国十年 東走西馳 成否在天 魂魄帰地

ここでは断片的にしか平野国臣という男について記すことができなかった。彼は苛烈ではあったかもしれないが短慮ではない。一時期は過激な活動に出ようとする同志たちを宥めたこともある。きっと生野での挙兵も失敗するとわかっていたかもしれない。

それでも、自らの志に従い最期まで戦いたかったのだと思う。やはり幕末の男たちは愚直で熱い男たちが多い。

今年の年末年始は2年ぶりに福岡へ帰省する。西公園にある平野国臣の銅像を見に行きたいものだ。

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