秋の用無しの駆逐に虫下し
●風英堂長月記=用無しの駆逐に虫下し
秋の虫、<リリリリ>と鳴くのは蟋蟀(こおろぎ)、<チンチロリン>と鳴く松虫、<チョンギース>と鳴く螽蟖(きりぎりす)、<スイッチョン>と鳴く馬追(うまおい)。<リーンリ-ン>と鳴く鈴虫は、松林を渡る風の声のようで、平安時代から聴かれ、源氏物語にも登場している。虫の声は、オスたちが求愛のために翅を摺り合わして鳴らすもの、「虫時雨」とは、虫の声が幾種類も重なりあって、とても賑やかになっている様子をさす。都会では秋の風情はあまり感じられない。
虫の声を聴く文化は日本や中国などにあるが、欧米人は虫の鳴き声を雑音と感じ、鳴いていることすら気付かない場合が多いと言われている。また、小泉八雲は虫を愛するのは日本人とギリシャ人のみだと述べているが、自然環境や四季の変化がその要因ともいわれている。交尾が終わったオスは先に死んでしまう、そのオスの亡骸を今度はメスが食べて栄養とする。
虫だけでなく、人間も鳴き、泣き、哭く。そして亡くなり、無きに帰していく。自然のサイクルは人生模様にも表れる。様々な様相をした「美魔」と出会うと、人間の気持ちは戦慄し、眩惑され、蠱惑されていく。権力を目指して争うと言葉を駆使、論点をずらしても固持したくなるようだ。権力とは左程に魅力的なもののようだ。
四季の変化感じることなく、今の日本では、何匹かの五月蠅い虫が「ソウサイ、ソウサイ、ソーリ、ソーリ」と泣き続けている。暗躍や徘徊するだけの用無しの<ジミン虫やヤトウ虫>には、厳正さを持った強烈な虫下しで飲ませて、清冽さのある社会になれば良いと思うが、汚物で世間を汚されるのも困りものだ。
ところで、用無しとは言うが、「用=よう」とは<必要にこたえる働き、役に立つこと、用途><なすべき仕事、用事><事物の本体に対して作用>である。能楽論で<本体に対し備わるはたらき、本体の応用>のことであり、風姿花伝には「さるほどに音曲は体なり。風情は用(ゆふ)なり」書かれている。何年も捨てられずに大切に使われ続けている道具や家具などには、あらゆる使用場面を想像しながら、丁寧につくり込む手仕事が加わっている。
さらに作り手の思いの深さのが存在している場合が多い。それは「用の美」と言われ、その業界の常識やシステムに惑わされない、本当に必要なモノ・コトだけに意識を集中した形と言えるだろう。大いなる知見を持てば、作り手も使い手も自由な想像力を得られ、用を足すことに全うするだろう。
単なる「機能美」ではない「用の美」という言葉は大正末期に始まった「民芸運動」から生まれた。思想家、美学者、宗教哲学者の柳宗悦氏は「器が美に病むのは用を忘れたからである」「用と美と結ばれるもの、これが工藝である」と提唱した。西洋的なファインアートでもなく高価な古美術品でもない、無名の職人による誠実な手仕事による民衆的美術工芸を「民藝」と名づけ、世に紹介することに尽力した。
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