居場所について

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今ドイツのとある大学にいる。いろいろと面倒だったり大変なこともあるのだが、今日書きたいのはこういうこと:もっと居場所がほしい。

この居場所というのは、家の中やバー、仕事場などの特定の空間のことじゃなくて、ある種の環境だといっていい。自分の言語表現が理解されていて、それでいてその場に居合わせる個人たちのそれも理解できている環境、それがおそらく今の僕には足りていない。

友人がいないわけではない。知り合いと街で出逢えば「やあ、調子どう?」というくらいのことは言うし、「今修士論文書いてるんだ。こないだテーマを変えることになってほんとに大変だよ。」とか「スポーツ学したかったのにこんなに数学勉強しなきゃいけないなんて、心が折れそうだよ。」といったような返事を聞く。機会があれば一緒にお酒を飲むし料理もするし何故か男女問わずストリップバーに連れて行かれることも時折ある。ただ問題なのは自分がそこで述べることのできる言葉が事実に関係したものでしかなくて、自分が理解できる言葉はさらにごくごく表面的な事実でしかない、ということだ。その原因の一つははっきりしている。この言葉のやり取りがドイツ語、つまり自分にとって見知らぬ言葉で行われているということだ。言葉をただ事実をやりとりする道具とするならばこの問題はおそらくもう少しすればなくなるし、ひょっとすればそもそも今は存在すらしていないかもしれない。問題は言葉は表面上の事実だけではなくて話者の個性や話者の頭の中の文脈をも表現しえて、それでいてその理解も対話者の個性や対話者の頭の中の文脈に大きく依存しているということだ。個性は個人が生まれることによって部分的に規定されるとともに、個人の育ってきた環境、人生の経験によっても定められもする。さらに文脈というのはその人生で経験したことそのものだ。人間の生きる時間、人生には殆どの場合言語がつきまとう。大抵の親は子供をまず言葉でしかる。人生のある瞬間で何が起こったのか、そのとき私は何を思ったのか。経験を整理するとき、人は日記を書く。

言語というのは具体的な形でしか使われない、普遍言語というのは実用されない。そこに原因の原因がある。

おおよその人間の母語はそれぞれに一つである。とはいっても母語が一つか二つかはたまた三つなのかは問題ではない。母語によって大抵の人は経験やそれに伴う思考を整理する。内部化されたものを再び言語によって外部化するときその言語が母語つまり個人が人生を通し慣れ親しんできた言葉なのか、見知らぬ言語なのかでは雲泥の差をうむ。

ある亡命者がこう書いている。「私達は私達の言語を失った。それはつまり反応の自然さ、ジェスチャーの一義性、阻害されない感情の表現のことである。」

日本に生まれてほぼ日本語に囲まれて育ってきた僕にとって「私達の言語」は必然的に日本語となる。自分の言語表現が理解されていて、それでいてその場に居合わせる個人たちのそれも理解できている環境と言ったが、理解をただの事実以上のそれと定義するなら僕の居場所は他の日本人のいるところ以外にない。結局のところ見知らぬ言語で居場所を作ることは僕にはできないのかもしれない。もっと居場所が欲しいというのであれば日本人の輪のなかにどっぷりと浸かりこんでしまうか、見知らぬ言語を慣れ親しんだ言語に変えるしかない。



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