見出し画像

「満たすもの」の話


最近どうも“流れ”が悪いと感じることが多い

流れというのは、なんというか
人の足並み、
声だとか、
外の温度の具合とか、
機嫌であったり、
時間のこなし方であったり
そんなものだろうか

ここ最近私自身
なにかに引っかかる。

仕事が忙しすぎてうまく行かない
いや、こなしてはいるのに、何一つスムーズにはいかなかったり
誰かの機嫌が悪かったり

心なしか頭が痛くなってきたかと思えば体調も悪くなってきたんじゃないかと思えてくる

誰と顔をつき合わせても
どこか自分がそこに居ない気がしてくるのだ。


そもそも私という人間は劣等感にまみれている

仲良く話していたかと思ったら次の日には挨拶すらできなくなったりするような人間だ
出来たやつではない。

だからというわけではないが
私は今の仕事場では、はじめの約半年ほどは
誰とも話さず、誰に帰るとも言わず、朝好きな時に出勤しては知らぬ間に帰るだけの生活だった

仲間とも友達とも言えるような人は居なかった

それも今では1年以上の月日が経ち、
仲間うちでも下請けの人間ととも、度々出かけたり、世間話をしたりと、なかなか人間らしい生活へと変化した

そのおかげか心なしか笑顔もでてくるようになり、明るくなってきたと自負している。

いつのまにか、自分の存在というものに存在感というものがついた


出社すれば「おはよう」と声をかけてくれる人がいるというのはいいものだ
嬉しい。

けれども、いつもこうだと、いざ「おはよう」の声を聞けない朝がくると
うーん..と心が消化不良を起こす

帰るときに「お疲れ様でしたー」と言える相手がいるのはいい

それも、誰にも告げることなく帰る日は
本当に自分がここにいたのかどうか、わからなくなりそうになる
寂しいという感情に近いだろうか

なんだかな、と煙草を一本吸って
ただ、それで終わり。


他人からの刺激で自分を満足させ始めているのだろうか

他人に自分の心を埋めてもらおうとすると
優しくされなかったときに、自分がなにかしてしまったんだろうか、どうして自分がそんな雑に扱われなければいけないんだと
勝手にガッカリしてしまう

本当はそんなことはせずに、自分自身で自分の心を満たしてやるためにどうしようかというのは自分の中にはあるのだが
私は、それは自分と向き合う時間になるのでどうもすぐにはやる気が出ない

時間さえあれば
自分がやったことのないことに挑戦したり
失敗ばかりで出来なかったことにまた挑戦したり
事務作業をこなしたり
生活を見直したり
ダイエットのためにトレーニングをしたり
家系のために節約しながら食事をつくったり
なんでもできることはあるのだが

他人からの誘いや刺激というものは
自分と向き合う時間を理由つきで無しにしてくれるのだ
本当は自分を自立させたいくせに
私は自分と向き合うのが苦しいからと
他人に自分の存在価値を上げてもらおうと期待してしまっているのだ

遊んでばかりではだめだ
もう少し自分の時間をつくらなければ..

と、しすぎると、
それはそれで鬱になりそうだ

けれども、自己の根底を忘れてしまえば
誰と過ごしてもなんの意味もなくなる

楽しいこと
嬉しいこと
むかつくこと
かないしこと
他人と過ごすと、自分というものに新しい感情が芽生える

誰かといるからこそ
優しいだの
ひどいだの
評価についての言葉がついてくる

たったひとり
だれとも会話をしないで仕事をしていたときには戻れないその理由は自分が今はひとりではなくなってしまった証拠なのだろう

他人時間はクセになりやすい
自分にはないものがSNSのように簡単に手に入るから

最近思うのは、
頂戴頂戴と生きるのではなく
これどう?これどう?って
人に自分の思うものをプロデュースしながら生きるのは自分にも他人にも刺激になるんじゃないかと試していってみたいという淡い期待

そもそも毎日うまくいくわけじゃない
今日も明日も明後日も、にこにこの毎日が続くわけがない

私は職場にいくと今は運良く誰かから「おはよう」の幸せを貰えていただけなのだと
ちゃんと理解して生きるべきかとそう考えた

すると、
なにもない一日は、暇で地味でなんの楽しみもない一日というわけではなく

なにもない一日は、私が私とだけ過ごした穏やかな一日であるだけなのだという結論に至った。

私という人間が一日くらい誰とも会えなくても、それは私の幸せな一日だったんだなとわかってホッとした

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?