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日本人は、なぜ死を恐れていないのか。

それは、日々、テレビから流れる番組であったり、前世占いだったり、多神教の輪廻転生を信じているからではないでしょうか。いじめにあって、簡単に命を絶ってしまい、来世に希望を託すのは本当に賢明な判断なのでしょうか。聖書はなんと語っているでしょうか。

1. 罪に墜ちた人間の行先は、最終的にはゲヘナという場所です。
(1) ゲヘナというのは「ゲイ ヒノム」(ヒノムの谷)に由来することばで、その谷はエルサレムの郊外にあって、ゴミの焼却場でした。昼も夜もいろいろな物が燃えて煙を上げていた場所で、永遠のさばきを象徴します。
(2) 聖書の他の箇所では、この永遠のさばきの場所を「火の池」(黙示録20:14)とも呼んでいます。
2. ゲヘナが最終的な行先だとすると、ハデス(ギリシア語、へブル語では「シオール」)はその途中の場所です。人が死ぬと、その人の霊魂は、まずハデスに行きます。
(1) そこは、かつては慰めの場所と苦しみの場所に二分され、信者と不信者はここで別れていました。慰めの場所は、「パラダイス」(ルカ23:43)または「アブラハムのふところ」(ルカ16:22)と呼ばれます。
(2) イエスは十字架で死んで、その霊魂はハデスの中のパラダイスに下りました(ルカ23:43、マタイ12:40、使2:31)。そして、イエスが復活し昇天した時に、パラダイスにいた旧約時代の信者たちはイエスとともに天の霊界に移されました(エペソ4:8)。これは、パラダイスが天に移されたとも言えます(Ⅱコリント12:4)。
(3) 今は信者が死ぬと、その霊魂は天のパラダイスに引き上げられます(Ⅱコリント12:2〜4)。他方、不信者の霊魂は従来通りハデスに下り、苦しみの場所に行きます(黙20:13)。
(4) ハデスを「地獄」や「よみ」と訳すことがありますが、日本語のニュアンスとは全く違う所です。たとえば地獄に行ったら、先に亡くなった家族や友人に会えると考える人がいますが、聖書の教えるハデスの苦しみの場所では、一人ひとりが炎の中で苦しむ状態で、同じ境遇の誰かと顔を合わせることもできません(ルカ16:24)。
3. 不信者は将来よみがえって、からだを持った状態でゲヘナに行きます。
(1) 不信者は将来、新天新地が出現する前に復活して、新しいからだを受けます(ヨハネ5:29)。
(2) ハデスから出て向かうのは、神の裁きの場所です。いわゆる「最後の審判」と呼ばれるものですが、聖書にはその用語はありません。「大きな白い御座」(黙20:11)のさばきとして記されています。ここでのさばきは、救いを受けるかどうかのさばきではなく、救いを受けていないことの確認とゲヘナでの苦しみの軽重を決めるものです。裁きの後、ゲヘナに投げ込まれます(黙20:15)。
(3) 軽重の差はあっても、ゲヘナでは、たましいとからだの両方をもって、永遠に苦しまねばなりません(黙20:10)。ハデスがたましいだけでの苦しみだったことと比較すると、もっと苦しいということです。

父なる神は、罪びとを愛して、御子イエスを身代わりに十字架につけてくださいました。十字架を仰ぎ見て、信じて救われよ、とおっしゃっています。それは、命令ではなく、懇願に近いものです(Ⅱコリ5:20)

父なる神は、正義と愛の神、約束を成就される方です。父なる神の愛を受け取って、ゲヘナ行きの列車から降りて、救いの三要素を信じ、永遠の命を得るのが本当の勝ち組です。そこには、我々の想像を遥かに超えたすばらしい世界があります。





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