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あいつと付き合わなかったのは必然だった


ふと、昔好きだった人のことを思い出した。
好きだったけど、付き合うことはできなかった。
付き合うことはできなかったけど、共通の友人グループに属している限り今後も顔を合わせ続ける仲でいるだろう。


なんで好きだったかとかどこが好きだったかとかいうのは、強がりでもなんでもなくすっかり忘れてしまったが、ふとあの人と付き合っていたらどうなっていただろうか考えてみたくなることがある。


多分、気は合っただろう。波長が合うというか空気が合うというか属性が合うというかノリが合うというかトーンが合うというか(わかる?)。
要は、接していて心地良い。ふたりでいるのが心地良い。

そう感じる相手だと人が思うというのは、相手がもともと持つ性質や気質を感じ取ってのことだと思うので、仮にその相手への好意や関係性がどれだけ変わろうとも、感じ取るセンサーそのものが鈍らない限り「この人は◯◯が合う」と思う感覚が変わることはないと思う。
故に、そこが合うということのアドバンテージはでかい。
しかしそこを重視するか否かについては別問題だ。そういう人と付き合いたいか逆の人と付き合いたいかという優先順位にもよる。



私はその彼と性質的には合うと感じ、一緒にいたいと思いを募らせたが、価値観や趣味嗜好、優先順位が合うかと言うと甚だ疑問である。これは当時からだ。

例えば、「恋人や結婚相手に譲れないものがあるとしたら?」と問われたら、私はまず1番に「食べ物の好き嫌いがない人」を挙げる。
しかし、その彼は好き嫌いがとても多かった。しかも私が大好きな食べ物が食べられないことが多かった。

フローに沿って行くと、彼はまず第一段階でアウトな人であったはずなのに、上述の性質・気質を好んでいたというアドバンテージで、自分の理想と異なる要素を持つ彼を見ないふりしてしまっていた。

「例えが弱い」と思われるかもしれぬが、私はこの食の好みには様々なことが反映されていると考えている。
まず、人付き合いの中で好き嫌いが多いというのは相手に気を遣わせたり、相手の食べたいものを我慢させてしまうことになると思う。それを出来る精神が自分の精神と違うと考えてしまう。
ふたつめに、アレルギーというわけではないのに出されたご飯を食べないことを家庭で容認されてきた人なんだなと感じる。我が家は「出されたものは美味しく全て食べる」と教えられた。それはひとつ目の人付き合いにおいてもそうだし、自身の健康面でも重要なことだと育ってきた。加えて家族が多かったため、「嫌いなんだね、じゃあ食べなくていいよ」という個別対応をしてもらえる環境でなかった。「食べ物の好き嫌いは良くない」というのは、そこから形成された価値観だ。彼はその価値観が全くなかった。どちらが良い悪い論争をする気はない。ただ自分とは合わないと感じる要素である。


彼との違いは他にもある。
当時ヒットした映画「LALALAND」を私はとても気に入り何度も観て、複数人に良さを語るほどだったが、彼は「曖昧だし難しくてよくわからなかった」と言っていた。「見逃したファインディング・ニモの方が面白かっただろうな」と言っていた。
同時期に大ヒットした「君の名は。」も私は大層気に入って何度も映画館に足を運んだが、彼は「寝てしまった」と言っていた。


将来像について語らった時も、私は「共働きでふたりで生き生きと頑張って、子ども育てて、郊外に持ち家を持って暮らしたい。双方の実家とも仲良くしたい」と考えていたが、彼は「若いうちは親にあまり関わりたくない。賃貸でもいいから六本木の高層マンションに住みたく、なんでも良いから外車に乗りたい。今は最近見た映画の影響でGeepに乗りたい」と語っていた。


人と付き合うとき(恋人に限らず友人にしても)、どこが一致しているのが重要と考えるかによって今後の縁が変わってくることはよくある。
どんな要素が一致していると好感や信頼を抱くに直結しやすいのか人によって違うはずだ。
「なにが大事か」や「どう考えるか」を一致させるのも困難だし、一致させることに捉われるのも無意味だが、どれだけ気が合っても続かない・途切れる関係性があるのはそれが所以だと思う。人はそれを「価値観の不一致」とか「タイミングが合わなかった」などと表現するのだと思う。

当時の私は、「 そんなことあるのかなー、どんなに価値観や考え方が合わなくたって、同じ熱量で向き合える相手ならひとつずつ合わせて行ったり理解して行ったりすることができるのでは?」と考えていた。

でも、今「もしあの時、彼と付き合っていたら?」を考えると、こういった不一致の多さ(一致しないこと自体ではなく一致しないという事象の多さ)がストレスになってしまうに違いないと想像する。
自分の性格的に、合わせられるところは人に合わせてしまうほうだし、変えられない部分は天変地異が起こっても変えられないので尚更だ。
合っていると思っていた相手が本当は合わなかったときほどショックなことはないし、それを分かっていながらも放置してしまうことに繋がりかねない気がした。


一方で、あの頃この先とか、結婚とかを意識せずに一定期間で終わるかもしれない付き合いだと割り切れるなら、楽しかったかもしれない。年月と共に合っていったり、考え方が変わっていったりしたかもしれないとも思う。少なくとも彼は、私には気の合う人、一言話せば2.3くらいは分かってくれる人、なんとなく空気が心地良い人であるのだから。そのアドバンテージが力を発揮してくれた可能性は大いにある。
だからこそ、私は明らかな不一致を飲み込んで、そこは耐えるつもりで、心地良さを優先させようと無理矢理思い込んでいた。
しかし彼は、自分の考えや価値観を理解し、称賛してくれる相手の方が居心地が良いと考えていた。心地良いは友情なのだ。

だから、あの時私たちは付き合えなかったし、今思えば付き合えるわけがないと思うのだ。
ただ、当時の盲目さというか自分を我慢してまでその人と一緒にいたいと思う強さには、きっとなにか他の要因もあったはずだ。例えば、「早く彼氏がほしい」とか「この人逃すと他に良い人と出会えないのでは?」とか。
なので、彼と付き合うことなく友人関係が続いている今こそ自然な流れだったと思っている。

当時は、付き合えなかったことを「一緒に居てこんなに心地良いのになんでだろう」と理解できなかった。
でも今となれば、違うところがたくさんあったなと理解できる。
落とし所のない恋愛を進めようとしていたのだなと思う。
肉と血は違う、そんな感じだ(どんな感じだ)。
先天的なものと後天的なもの、硬いものと柔らかいもの、変化していくもの変わらないもの。
対になる概念は、大人になればなるほどそれらの中間色を探すのに苦労するし、それができなくなることを感じた。
そこに時間や労力をかけることに対する利益やパフォーマンスも考えてしまうようになる。
まったく、不粋である。

最近結婚した友人が、「あの人と付き合おうと思ったのは、同じくらい性格が悪いから」と話していた。

その軸は持っていなかった。
性格の悪さはなかなか人に開示できない。
彼にはそんな部分を見せられなかった。
その軸はひとつあると良いかもしれない。
好きとか愛とか、合う合わないとか、その次元から脱出できる気がする。

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