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作者の存在について

 人間から夢を見る力が失われた。

 ……と言う人もいますがそうではなく、今も常に全員なんらかのフィクションを信じつづげていることで社会は維持されているわけです。
 以前にも少し別の場所で触れましたが、虚構と現実の境目が曖昧といった評価って、悪口として使う時はあんまり核心部分に到達してないと思うんですよね。悪いことをするのが悪いことなのであって、フィクションと実世界の境界が曖昧であることは、特に劣っている優れているとかではなく人間の平常なわけです。大規模な集合の成り立ち、多くのイデオロギー、大半の恋愛、大体の広告。

 それにしたって冷めるというか醒めさせられる情報が多いのが現代なわけです。誰が悪いというわけではなく、SNSの恩恵と弊害のうちの一つ、あるいはどっちもでしょうか。


 私などは極めて繊細、といえば聞こえはいい神経質な方で、縦書き小説の右側の折り返しに作者の顔写真がついているだけで読むのをそっとやめてしまうくらいで。左側なら大丈夫です。舞台演劇の閉幕と同時に精神の連続性を乗り換えてカーテンコールでめっちゃ拍手するみたいなのと大体同じです。

 作者が主張することで作中の登場人物へ向ける意識が別の人間へと向かうこと、「この作品の登場人物他はこんな考え方でこんな行動を取っている」という意識が、「作者はこのような考え方で、このような意図でこのお話を書いたんだな」という意識にすり替わってしまうのが本当に……

 やだ!

 概念が奪われている! 私だって作者だけど人間として存在したくない! でもこの世はそんな風になってないらしいですね?


 しかし最近気づいたんですけど、どのみちこの世が選択的フィクションなら、作者が世界に存在するか否かも、受け手が選択して決めればいいのではないか?

 送り出された作品は受け手の物と申します。それならどう受け取ってもいいんですよ。それこそプラトンのイデア論、見えるものや感じるものの背後に、永遠で変わらない「形」や「理念」、イデアがあるという考え方でもいいし、自分を含めて投影されていると考える宇宙ホログラム仮説でもいいし、二重思考(ダブルシンク)という、超有名な小説に出てくる矛盾した事実を受け入れる手段を実践する手もある。
 またシンプルにパラレルワールド説・マルチバース説を取り入れて平穏に過ごしたり、それもなんだか嫌ならいわゆる現実的アプローチとして、作者を好ましく思うという方法もあります。

 ウォルトが死んだ!という劇的な書き出しを見せる『ディズニー 夢の王国をつくる 』という本があります。ディズニーランドを作った人たちのがんばりの記録本です。その一説に、SF作家レイ・ブラッドベリの手紙が載っています。

『私自身、ディズニーランドは知性を捨てなければ楽しめないという思いがありましたが、7回訪れてそんなものは吹き飛びました。ディズニーも多くの間違いをおかします。間違いをおかさないアーティストはいません。でも、彼が空を飛ぶときは、本当に飛ぶのです。私は彼がつくったピーターパンのアトラクションで、真夜中のロンドンの上空を飛び、素晴らしい街の景色を見下ろしました。この恩は生涯、忘れません……ハラビー氏も、心からディズニーランドを愛しているのでしょうが、それを認めるには大人なりきれず、子供にもなりきれないのではないでしょうか。気の毒でなりません。彼は決して宇宙を旅できないし、手で星に触れることもできないのですから」

 ウォルト・ディズニーはいてもいいし、いなくてもいい。敬意のあるなしに関わらず、またまたその瞬間瞬間に絶えず判断されている。

 それを判断する指針は? 魂と感情です。それが人間が持つ唯一の真実です。




 以上が社会と大きくずれがあるらしい私が何年もかけて歩み寄った私なりの折り合いです。ご清聴ありがとうございました。


くらしが楽になります