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MIU404は、清廉潔白ではない私たちに「それでも生きろ」と言った


ずっと、裁かれる側のような気がしていた。
ハリウッドの映画なんかではよく分かりやすい善人と分かりやすい悪人が出てきて、後者はなんの情もかけられずにサクッと殺されてしまう。私はそのたびに背筋が凍るような気持ちがした。今、利己的に盗みを働いたその人は、もしかしたら自分だったかもしれない。

罪を犯さないという自信がないのだ。追い詰められたとき、ほんとうに苦痛に呻いているとき、正しいままでいられる自信がまったくない。「悪人」がいともたやすく腕をもぎ取られて死んでいくとき、まるで私が同じ目に遭っているようで泣きたかった。


(11話までのネタバレが含まれます)


志摩一未はたぶん、自分のことを悪人だと思っている。そしてこれまでの物語を見るに、彼がある種の非情さを持ち合わせていることは事実である。

「俺は他人のことなんてどうでもいいんだ、本当は。心配してるふりして、善人のふりして、人間らしく見えるように振る舞ってるだけ。
………だから簡単に引き金を引ける」─11話

捜査一課時代の志摩は、傍目には「良い人」とは呼べなかった。自分が優秀だから、仕事ができない人の気持ちを理解しようとしない。優しさも慣れ合いも必要ない、任せられた範囲の仕事さえこなせばいい。それについてこられない弱い奴のことは知らない。志摩はそうやって余分なものを排して、代わりに対人関係で傷つくこともない生活を送っていた。

「他人のことなんてどうでもいい」というのも恐らく本心なのだろう。けれどそんな彼も、4機捜に来てからは驚くほどに変化していた。


志摩は相棒の伊吹と出会った日のことをこう回想する。

「…………俺はあのとき、感動したんだ。この野生のバカと走ったら、取り戻せるかもしれない。今まで助け損なった人たちの分も、誰かの未来をいい方向にスイッチさせて…………救えるかもしれない」―9話

それまで志摩はきっとあまりにも多くのものを取り落としてきた。そして誰かを助け損なうことすらも、仕方ない、出来ることはやったのだから、と思ってやり過ごしてきた。当然のように人を傷つけることにも慣れて。

だけど、伊吹は違った。どんな小さなことでも自分が気になったらそれを解決するために突っ走ってしまう。職務の範囲外でも人を助けようとする。どんな人にも手を差し伸べて、そして本当にハッピーエンドを掴んできてしまう。志摩は徐々に「自分もそうやって正しく生きられるかもしれない」と感じるようになっていった。


上記の11話での語りには、結局は何も変われていない自らにたいする呆れや失望の色すら滲んでいるように思える。そしてまた、善くあろうとすることは志摩にとってずっと苦しいことだったのだ。彼はRECに対して「強くて、清くて、正しい警察官でいることに…………もう疲れたわ」と述べる。前回、桔梗に「警察は常に清廉潔白でいなくちゃならない」と言ったあとを引き継ぐように、そのことに疲れた、と。

久住との戦いから見て取れるのは、人は正しく生きることの方がずっと難しいという事実だ。道を逸れるための誘惑はいつでもそこここに転がっている。利己的に悪事をなして、人を傷つけてもなにも思わないでいられたらきっとその方が楽だ。

善良なまま悪人を追いかけること。なんど失敗しても正しさを貫き通すこと。それは勧善懲悪ものの物語で描かれるほど簡単ではない。正しくあることをやめてでも久住を捕えたい、と志摩は思う。刑事を捨ててでも犯人を許さない、とガマさんは言った。伊吹もまた同じように。主人公のふたりですら取り返しのつかない犯罪を為す寸前まで行ってしまう。



MIU404は、「人はいつ罪を犯すのか」という命題を突き詰めた物語だった。2話で殺人犯として追われていた加々見は父親に虐待を受けて育った。3話でイタズラ通報をしていた高校生たちは学校から理不尽な抑圧を受けていた。4話で会社の金を横領して逃げた青池透子はヤクザの被害者だった。8話で殺人に至ってしまったガマさんは、妻を殺された。

痛々しいほどに、この物語に登場する彼らはみんな元被害者だ。

「もちろん相手が未成年だとしても取り返しのつかない犯罪はあって、それ相応の罰は受けてもらう。だけど、救うべきところは救おうというのが少年法。(中略)私はそれを、彼らが教育を受ける機会を損失した結果だと考えている。社会全体でそういう子供たちをどれだけ救い上げられるか。5年後、10年後の治安はそこにかかっている」―3話

桔梗隊長のこの台詞はきっと、少年だけでなく罪を犯してしまった大人にも向けられている。彼らがもし、適切なケアを受けられていたら。理不尽な抑圧に耐えて、耐えて、耐えるしかなくて、その結果道を誤ってしまった彼らが、もしどこかで「スイッチ」になる何かに出会えていたのなら。そうしたら罪を犯さずに済んだかもしれない。

度々繰り返された世界ピタゴラスイッチ論は一体なんのために存在していたのか。私たちはそれを最終話にしてようやく理解することができる。



伊吹と志摩が間違えてしまう可能性はもう、恐ろしいくらいにあった。東京オリンピックが開催される世界線────そこではふたりとも銃を抜く。決して踏み越えてはいけない殺人という罪を犯す。そしてそれは夢だったけれど、ただの空想ではない。状況さえ揃えば、もしほんとうにそうなってしまえば、彼らは確実に久住を殺すだろうということが私たちには理解できてしまう。

夢の中の久住は信じられないほど的確に彼らの弱点を突き、最も傷つく言葉を次々と投げかける。これは志摩や伊吹の深層心理が久住の姿を借りてそう言わせているのだろう。「お前は本当はこちら側の人間なのではないか」「お前には罪を犯す素質が十分にある」。これは「自分は偉そうに犯人に説教できる立場なのか?」という彼らがずっと抱き続けている葛藤のあらわれでもある。


人はいつ罪を犯すのか────そう。状況さえ揃えば、いつでも、だれでも。

ふたりともそのことを知っている。誰にだって等しく可能性があるという絶望的な事実を。どんなに優しい人でも、どんなに正しい人でも。私たちが致命的な間違いを選ばずにこうして生きているのはただ運が良かったからなのかもしれない。みんなどこかで久住と共通する悪の一面を心に飼っていて、それでも選択を間違えずに生きていくのは辛く苦しいことでしかないのだ。

スイッチ論ではもうとっくに示されていたではないか。「障害がいくつあるか、手助けがいくつあるかは人によって全く違って、だから道を踏み外すリスクは誰しもが平等なわけではない」ということ。それは裏を返せばどんな人でも、災害のように突然ピタゴラスイッチをかき乱されて高リスク環境に叩き落されてしまう可能性があるということだ。これは絶望なのだろうか。正しくあろうとしても意味がないという宣告なのだろうか?



けれどもそう思った瞬間、物語は最悪の事態から巻き戻る。

「だけどさ、どうにかして止められるなら────止めたいよな」

志摩と伊吹が奥底に抱える危うい部分はなにも解決されていない。「状況が揃えば人を殺してしまうかもしれない」という可能性は結局最後まで残り続けている。オリンピックが開催されない本編世界線では目覚めたときの状況がもっとマシだった、たったそれだけの違い。

それでも彼らは正しい世界に辿り着けた。最悪のIFを見たからこそ、目覚めたふたりは心底嬉しそうに「まだ間に合う」ことを噛みしめる。

これは祈りだ、と思う。どれだけ傷つけられても正しさを貫き通さなければならない生き方はひどく苦痛をともなう。でもそれでも、できるのなら正しいほうを選びたい。正しい人間にはなりきれなくても、悪の可能性をはらんでいても、どうかひとつひとつの選択を間違わずに生きていけたら────

そしてその切なる祈りが報われたから、彼らはだれかの最悪の事態を防ぐために、今日も2020年の東京を機捜車で走り回っている。



志摩が最後久住にかけた「生きて、俺たちとここで苦しめ」という言葉は、私たちにも向けられている。善人じゃない。清廉潔白にはなれない。それでも正しく生きていかなければ罰されてしまう世界だ。でも自らの悪性に苦しんでいるのはお前だけじゃなくて、俺たちだって同じものを背負っている。


だから、俺たちとともに、正しく生きることに苦しんでくれ。


ああ、なんてひどい願いなんだ、と思って泣きたくなった。あなたたちにそれを言われたら受け入れてしまう。だって私たちは「それでも」と正しい方を目指してもがき続けた彼らの美しさをもう知っているのだから。

道徳を守れ、人に優しくしろ、と言葉でいうのは簡単だ。けれどこんなにも正しくあり続けることの血を流すような苦しみに向き合ってくれた作品があっただろうか。性善説なんて嘘だ。私たちはみんな薄暗い嫉妬も、なにもかも投げ出してしまいたくなるほどの怒りも、すべてを敵だと思いたくなる悲しみも持ち合わせて生まれてきた。だから生きているだけでこんなにも苦しい。

だけど苦しいままでいいんだ。醜いからこそ、美しくありたいと願う。そんなことは不可能でも、なにも取り落とさないように生きていけたらと祈る。清廉潔白ではないからこそ、私たちは泣いてしまいそうなほどに、正しさにあこがれる。





MIU404はparavi(パラビ)で全話配信中。2週間無料なので、興味のある方、見逃した回がある方はぜひよろしくお願いします。こんなに救われたのでわたしはもっとたくさんの人にこの作品を見てもらいたいです…………。

とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?