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人々に信仰されたことがあるリアル救世主さんに感想を聞こう![note版]


おはようございます。こんばんは。秋麗の候、皆さまいかがお過ごしでしょうか。わたくしは刻一刻と迫りつつある冬の気配に怯えながら毛布にくるまっています。みなさんも冬季うつの脅威に怯えて暮らすがいいよ。ムーミンは、北欧に住んでるけど冬眠するから、冬季うつと無縁でうらやましい。


さて、9月の頭に募集した企画にそろそろ決着をつけて参りましょう。こちらは人々の「救済」に関するエピソードを幅広く募ったもので、第一弾は動画でご紹介しております。初めての方はお先にこちらをどうぞ。


note版では主に動画に出していないものにお返事を書いていきます。最後に動画で紹介した投書の全文も掲載しているので、気になるものがあった方は合わせてそちらもどうぞ!


メサイアコンプレックス持ちの人は魂が迷える子羊なことが多い。これは確かにそう。幼い頃から辛い経験をしてきた人ほど、「今度は自分が誰かを救えるようにならないと」「そうじゃなきゃ自分があんな思いをしてきた意味がない」と考えてしまいがちなのだと思います。そこにはサバイバーズギルト風の切迫感がある。
自分の中にまだ鬱屈とした感情があることに目を瞑ったまま、あるいは気付かないままメシアロールを行おうとするため、思ったような自分になれないと一気に決壊してしまう可能性を秘めている危うい存在。

投稿者さんの出会ったメサコンの人はもしかするとそういうタイプだったのかな~という風に思いました。そういう人が、自分の中の鬱屈としたものを許されたり認められることで、「救われていたのはわたしの方だ」と気付くのは激アツ展開すぎる。あと投稿者さんの自身に対する「単にあんまり自我がない」という形容に笑ってしまいました。あんまり自我がない優しい人は、正直救世主さんに向いてます。


「時代が違えば聖女として祀り上げられていそう」な人間ってほんとうにいるんだ。単純に何もかもを許すことが救いなのではない、ということは私もずっと思っていて、時にはストレイシープが傷つくような試練を与えて、それを超えた先にある風景を見せてやることも、救世主さんには必要な資質なんですね。人をひとりでは到達できなかった場所まで導いてやるのがメシアなのだから。
だから「菩薩と閻魔の人格」を同時に有しているというのは、もっと宗教学的に言うと「母性と父性」の両面を持ち合わせた神ということで、あなたの聖女はまさに救済者のあるべき姿だねと思いました。

ストレイシープのつもりで生きていても誰かを救っていることがある、そして最初の投書で見たように逆もしかり、というのは勿論そうで、これは決して一義的なものではないんですよね。今回の企画であえてどちらかに所属するように言ったのはひとえに構造の可視化のためであって、本来人はどちらにもなり得るし、どちらでもあり得るものだと思っていたりもします。


今回の投書の中で一番好きだったと言っても過言ではない。一人称が「羊」なの潔くて大好きだよ。
相手の正しさゆえに好きになったけど、その正しさが苦しくなってしまう瞬間って、あるよね。


芸術を介して救いが発生している例。絵や音楽、物語に救われて生きてきた人は大勢いるけれど、その魔法のような芸術を生み出したのは生身の人間なのだということをいつも思う。


本筋とはちょっと逸れるけど、フィクション上のキャラクターが人を救うときというのはどういう仕組みなんだろう、というのも私は非常に興味があります。自分自身フィクションに救われてきた人間でもあるので。
「道を示してくれるもの」としての役割は、ソレが現実存在であるかにかかわらず有効だと思っている。ほんとうに辛く苦しくて、どこに行けばいいのか、そもそもこの世界に進んでいくべき場所があるのかすら分からないとき、「光はあるよ」とフィクションが教えてくれることは、きっと現実に波及する救いになる。もし現実の自分には辿り着けそうもないものだったとしても、「ある」ということだけで救いになるものだってあると思うから。

フィクション上の「全人類の救済」という概念は、私にとってそのようなものだったのかもしれないと思いました。考える機会をくれてありがとうございます。


上の投書と似た意見で、こちらもフィクションと救済に関して。大きな善性を持つキャラクターが空想として存在することで、「現実にももしかしたらいるのかもしれない」という微かな希望に繋がっていくという効力がある。
人間は弱いから自分の周囲の世界が悪意に満ちていると、「世界の全てがそうなんだ」と思わずにはいられなくなっていく。そうではない場所、悪意だけではない人間がいるということを信じられなくなっていく。
フィクション上のキャラクターを救いとすることは、「この世にもあなたのような人がいるって信じさせてほしい」という祈りなんだね。



E.フロムの「自由からの逃走」とかの話ですね。メシアを仰ぐことは圧倒的なものに屈服すること、ひれ伏すこと、自分の魂の体重をすっかり投げ出してしまうこと、なのだと。
実際、救済にはそういう面もありつつ、それだけではないとも思います。自分の人生を相手のために投げ出して、自身に対する責任を放棄するようなストレイシープの姿は、健全ではない。救済を経験したときストレイシープが考えるべきは「救われたことで自分は何ができるようになったか」であって、「もうこの先ずっとメシアに従って生きていけばいいや」ではないのです(スパルタ式救済法)。

この辺りの構図は、個人間ならまだしも「救済者=国家」になったとき大事故が起こるのでセンシティブな問題。愛国心と恋愛感情はきわめて近い位相にあり、盲目的になることもだけど、相手が”自分以外の誰か”を優遇しているときに激しい嫉妬を抱くのも同じ。でもそうした攻撃的な態度も、国家を自分のための救済者だと信じているからこそのものなんですね。あ、そろそろ強い思想になってきたからやめとこうか……。



「助ける」と「救う」の違いについて。個人的には物理的もしくは比較的軽度な援助を受けたときに人は「助けられた」という言葉を使い、精神的かつきわめて重大な「助け」を受けた時に「救われた」という言葉を使う傾向があると思っています。
心理面での変化を伴わない場合は基本的に「救われた」という言葉が出てくることはない。また、精神的な救いを経験した場合でも言葉遣いが大げさになるのを避けて「助けられた」と言うことがあるため、ふたつの言葉の用途が完全に区別されているわけではなく、大分類「助ける」の中に限定的な用途としての「救う」が入っているイメージだと考えられる。

投稿者さんの友人の場合は、教員追放の事実よりもいっそう深く「そうまでしてくれた」あなたの心に救われたんじゃないかなあ、と思いました。このエピソードだけで投稿者さんの善性が伝わってきてあたたかい気持ちになります。これもなんだけど、その後の

>「僕の女神です。あなたは聖書の始めに出てくる光だから」


これすごくないですか?

>「(名前)は、沢山の人を救う存在だから……」と足元で泣き始められたり


1世紀のイスラエルの光景かと思った。

ストレイシープのみなさんたちの本気度が違いすぎる。ところで、みずさわはこの企画の告知動画でこういうことを言ったんだけど覚えてるかな。

……キミに決めたッ!!


これから二つ名として名乗っていいですよ。



>うち一人とは現在同居しており でうわああ!ってテンション上がっちゃった。救いがいい方向に作用したみたいで勝手にこちらも嬉しくなってしまいました。
インターネットは難しいね。今、インターネットで一定数の注目を集めている人でアンチからのネガティブな発言・誹謗中傷を受けたことがない人なんていないんじゃないかな。誰かの心を救えるような人間、絶対この世にいなきゃいけないような優しさや才能を持った人でもそういう悪意を受けて居なくなってしまったりする。もし私が世界を変える力を持っていたらインターネットの悪意を一掃する……たとえそれを望まない人間がいたとしても……。

「痕跡ごと消えてなくなること」が救いだと言うのは、生まれてこなければよかったということなのかな。でも、救いの形は自分では想像すらしていなかったものでもあり得てしまうから、もしかしたらメシアは存在しないと言い切ることはできないかもしれないですよ。いつだって救いに出会う可能性はあると思うから。



なんとなく、というか、ほぼ確実に誰の投書か分かってしまっていて、こうした目的のために仮想救世主になった人の言葉だと思うと胸が熱くなりました。投書をもらってからこれみずさわが一人で読んでいていいものじゃないよ~……早く世に出さないと……。と思い続けていて、ようやく公開できて肩の荷が降りる思いです。

痛みが遅れてくるという経験。当事者としてその場にいた時は、自分がどれくらい辛いのか、この場所がどれくらい間違っているのか、麻痺してしまって分からないこともある。いつかは気付くべきだ。「あのとき自分はとても辛かったんだ」といつかは自覚するべきだ。でも、それに気付いてからの人生は、平穏な場所にいるのにずっと心を引き裂かれているようで、何年分もの痛みに一気に襲われているようで苦しいのを知っています。

そういうときに一緒に新しい道を探してくれる人がいたのはすごく良いことでしたね。よい救済の経験から、今度は自分が手を差し伸べる側になろうとする決意も、ある種メサコン的なのかもしれないけど美しく見える。それは強烈なまでの信念があるから。私が初めの頃あなたに興味を持ったのは、そこに覚悟を感じたからだよ。どうか貫き通してください。


「そのあと何があっても、あのとき私を救ってくれたことは事実」ってみんなが思えたら、反転アンチという存在はこの世に居なくなるのにね。こんな悪意だらけの世界で一度でも救いに出会えることは奇跡だよ。どれだけ打ちのめされてもその記憶だけを抱えて生きていってほしい(強火)。


メシアさん「そうなん笑 よかった~笑」←メシアの自覚なくて残酷かわいい

何年経ってもその時の感謝を伝えてくれるということで、ストレイシープ側の方も本当に嬉しかったのだろうし、関係も円満なようでこれにはみずさわもニッコリです。ありがとうございます。


>「わたしがいてもいなくてもこの人は変わらない」というところが好きだった

これ分かるなあ。リスロマンティック気質で、「自分の存在が相手に何らかの影響を及ぼしてしまう」ということがもう既に少し怖いと思うから。私の場合人への好意が信仰に寄ってるから、不変であってほしいと思ってるのかもしれないけど。

この投書からは、自分以上に自分のことを考えてくれている大人に出会ったときの奇跡みたいな救いの体験と、それにうまく応えられないことへの葛藤が、ものすごく真摯に伝わってきました。自分自身ですらもうどうでもいいと諦めていた人生を、このひとは全然諦めていないし、信じてくれてさえいる……ということ。

吾より深く吾の将来を考える面談のきみ 夏シャツの青

これはわたしがすごくすごく昔に作った短歌で、同じように救われた経験をした。そして同時に、あまりにも住む世界が違いすぎて、その人のように正しく生きられはしないことに打ちのめされ続けていた頃のこと。
久しぶりにその頃のことを思い出しました。これほど真剣に書いてくださってとても嬉しかったけど、お題箱だから匿名で発表するしかないのがもったいないような気もしている。せっかくこんな良い文章が書けるなら、自分の名前で世に出してみるのもおすすめです。



いわゆる病み系の二次創作を書いている人が界隈で神格化されがち現象、見覚えがある。普段同じ悩みを抱えている人に会う機会がないと、ふとそういう創作に触れたとき「この作者さんなら分かってくれるかも」という期待をしてしまうのかもしれないですね。

私は悩み事とか病気についてお題箱に送ってもらっても全然大丈夫な人だけど、人によっては重い相談に乗るのは自分までしんどくなっちゃうから嫌だ、という人もいて、匿名箱を使うときはそうした悩み相談が相手の負担にならないか、というのも気にした方がいいですよね。送られる側にしたら困っている相手に対して「もう送って来ないで」とはなかなか言いづらいから。

そういう大変な経験をしていても「みんな幸せになってほしい」と言える投稿者さんは優しい人ですね。



駆け込み訴えみたいだ……。

それはともかく、救いを経験していながらあえて相手をメシアだとは呼ばないで、神格化しないでいようとすることは投稿者さん自身の心に対してとても誠実なことなんだろうなと思いました。
あなたを愛していると言うことで、あなたのいるこの世界を愛していると言えるようになる。この世界が美しかったことに、その人のまなざしを通して初めて気付けるようになる。そういうものこそが本当の救済です。救済とは決して個人間で完結するものではないし、そこからマイナスの方向に向かっていくものでもないんだ。この世界と自分の人生を前向きに肯定したくなるような出会いのことだけを「本当の救済」と呼んでいる。私はね。これは強い思想だから、みんなは気にしないでそれぞれの救済の定義を使っていっていいよ……

最後に美しい言葉が読めてよかったです。ありがとうございます。




さて。これですべての投書についてのコメントが終わりました。随分時間がかかってしまって、お待たせして申し訳なかったんだけど、それでも全部に時間をかけて向き合いたかったのです。救いに関する経験は軽い気持ちで語れるものじゃなく、きっとみんなの人生の中でも大きな転換点や、傷になっている出来事だったりもして、私もそれだけ大切に扱わなければいけないと思っていたからです。

このアンケートを取ろうと思ったのは救世主さんの内面を知りたかったのもあるけど、それと同じくらい「救いに出会った人たち」の言葉を、まだそれに出会っていない人に読んでもらいたかったというのがあります。生きることが辛くて、何にも期待できなくなっているとき、救いを経験したストレイシープたちの生の声はわずかだけど希望になるかもしれないから。だから、自分のことを時間をかけて書いてくれたストレイシープ陣営のみんなにも感謝です。

そして大切な人生の一部を私に託してくれてありがとうございます。書ききれないくらい考えさせられたことがあるし、自分自身の人生のことも色々と思い出しました。私はもう既に救済を経験した身だからこそ、誰のもとにもそういうものが訪れる可能性があると信じている。自分がかつて救いなんてものはないと決めつけていたからこそ、いまは本当にそう思っています。

誰もが世界を愛していると言えるようになる可能性を持っているよ。

それではみなさま、よき救済を!





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以下、動画で紹介したものの全文です。一部抜粋して紹介したものについては、改めてコメントを付け足したり足さなかったり。

自分だけの宗教、いいね!私も私だけの神を信じています。セルフ宗教は、自分のイマジナリーゴッド想像力が試されます。強く信じることが大切。信じればすべてがほんとうになる。


非常に簡潔で分かりやすい言語化で感謝でした。救われたいけど救われたくない理由を説明するの難しいと思うけど、この投書のおかげで解像度が上がりました。


実際、大衆としてのストレイシープには「群集心理」みたいな熱狂しやすく冷めやすい面があるから仕方ないところもあるね。でも精神的に自分ひとりの力で立つということは、ある一部の人間にとっては限りなく難しいことで、彼らも悩み苦しんだ結果「だれか崇拝できる他人に縋る」ということに安寧を見出しているのだから、それを無価値と切り捨てることはしないであげてほしいなと個人的には思う。

無論、そうやって縋られる側はたまったもんじゃないということも動画で言った通り分かるので、難しいところではありますね。投稿者さんとストレイシープに円満な関係が築けることを願っています。




以上。改めて、今回投書を送っていただいたすべてのみなさん、心からありがとうございました。

それではまた、次のバーチャル・ミサでお会いしましょう。

とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?