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復讐の心理からみるフィクション〜「死者はそんなこと望んでいない」を否定しよう!〜


復讐者のキャラクタ~を推しているそこのオタク! 俺の話を聞け 5分だけでもいい

憎悪ほどかわいい感情ってないですよね。ところで、復讐は「死者はそんなこと望んでいない」とか「あなたが幸せになることこそが最高の復讐になる」とか「復讐は何も生まない」いう理論で否定されがちである。ふざけんじゃね~~~~ぞと思いませんか? 

「復讐とは産まれるための前提だ マイナスをゼロにする唯一の公正」「刑務所に入っても無期懲役になっても人生は続くが……! 復讐を後回しにしている限り 人生は始まりもしない……!!」──あくまのじがぞう展 復讐の章/宮沢原始人


大切なものを奪い去られ、尊厳を踏みつけにされた人間は、時に自らを「死んだも同然だ」と認識する。生きてさえいないのに幸せになるなんてことがどうしてできるだろうか?

復讐は、常に致命的なマイナスから始まる。それは失くしたものを埋め合わせ、マイナス地点からゼロに戻ろうとするための決死の努力である。”生産的”な行為──プラスを生み出すこととは、そもそもの目的が異なっている。「復讐は何も生まない」、それはそうだ。だって彼らは初めから生産など求めていないのだから。

では復讐者が何を求め、どのように世界を見つめているのかを考察していこう。



1.復讐の形式

まず復讐は、自分が受けた被害について行われる直接復讐と、親しい他人が受けた被害について行われる代理復讐に分類される。

自らの恨みを自ら晴らす行為は理解できるとして、特筆すべきは代理復讐のケースだ。この場合には復讐者本人は取り立てて被害を受けていないか、あるいは受けていても軽いものでしかない。彼は親しい何者か──苦痛や憎悪をそっくりそのまま写し取ってしまうほどに心の距離の近しい他者──が傷つけられたことが許せずに、いわば被害者の代行者になることを決意する。

死んでしまって、もう復讐が為せないあの人の代わりに。傷つけられ尽くして、もう立ち上がる気力も持てないあの人の代わりに。

どのような形を取るにしろ、復讐・報復・制裁には相応の労力と時間を要する。他害行為はすべからく犯罪とみなされるものだから、その目を掻い潜ったり、正当とされるような方法を選び出したりと、その実行は思い立ってすぐできるほど容易ではないのだ。「害された誰かのために復讐を行う」場合において、本来復讐者にはそれほどの労力とリスクを払う理由はないと言っていいだろう。だがそれでもやらなければならない、自分が為さなければいけないと思うのは、自らを被害者の代行者としてさだめることで、過失の責任を負おうとしているからである。

憎悪を抱くためには、何かを大切に思っている(いた)という前提がかならず必要になる。人を愛しているから、その命や幸福を奪ったものを憎むのだし、特定の主義を持っているから、それに敵対するような思想の集団を憎む。これらは常に表裏一体でどちらかだけでは存在しえない。愛する人に被害が発生するまで自分には何もできなかったという無力感は、代理復讐において重要なファクターとなっている。

愛する人への加害という受け入れがたい物語についに自分は手を加えられなかったという意識、これが彼らの無力感の本質である。”何もできなかった自分”を償うために、その物語の中に参加者として加わろうとする努力。大きな流れから隔絶されて本筋に関われなかった人が、今からでもそれを書き換えようとするような最後の足掻き。ただ無力さを抱えて立ち尽くすよりは自分のせいだと責を負ってそれを償いたい、という欲求がそこには見て取れるのである。

とすると、代理復讐はよく「死者はそんなこと望んでいない!」という言葉によって否定されるが、これは復讐者の動機を見誤ったいささか見当違いな発言であることが既に分かっていただけるだろう。



2.復讐の動機

被害がひと通りではない以上復讐の動機が多岐に渡るのも当然だが、その傾向を分類することはできる。ここではその動機・目的をおよそ5つのパターンに分類して見ていく。便宜上パターンという言い方を用いるが、実際には人はどれか一つのみを採用するわけではなく、それぞれを交絡させながら感情を形成してゆく。


①苦痛相殺型

──どうして、お前だけがのうのうと生きている?

人はとにかく、社会にはびこる不公平に敏感である。犯罪被害者に対してバッシングを行ってしまう心理を説明するときによく取り上げられる「公正世界仮説」は有名だ。

「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。


被害者、あるいは代理復讐者は時にこのような感情を抱く。「自分は/あの人はこんなにも苦しい目に遭って、人生を滅茶苦茶に壊されたのに、どうしてあいつだけがのうのうと生きている?」この根底にあるのは耐えがたい不公平感だ。ではこの世界を”公正”に直すためにはどうすれば?

そこでよく用いられる理屈がある──目には目を、歯には歯を。古代メソポタミアにおいて法規とされていたこの「仕返し」の理論は、現代では野蛮なものと誤解されることが多い。しかしこの時代民の間では「目には死を」型の過剰復讐が横行していたのであり、この法典はそれを差し止め、復讐は同等の懲罰までという制限を設けるために作られた。つまり、「目には目を」は不公平を公平にするための行為なのである。


このパターンの復讐動機を「苦痛相殺型」と呼称する。自分が受けた苦しみをよそに相手だけがのうのうと笑って生きている、この不公平を復讐の刃によって”相殺”する。(相殺=差し引きして帳消しにすること)公正世界仮説が良いほうを基準にした世界の見方なら、苦痛相殺の復讐は悪いほうを基準とした公正を求める心の在り方なのである。



②被害伝達型

──私がどれだけ痛かったか、思い知らせてやる。

これは、相手に自らが加害者であることを自覚させることを目標とした復讐の形態である。復讐者がしばしば口にする「思い知らせてやる」「責任を取らせる」「謝ってもらう」という言葉遣いは、自分の受けた苦痛と加害の罪を認知してほしいという動機に端を発している。

法で裁かれれば、加害者が反省していようがいまいが相応の罰は下る。応報刑論──「刑罰」は国民の報復行為を国家が代行するためのものだという考え方──に基づけば、これだけでも復讐は為されたと認識することはできよう。

だが加害者が罪を否認しているとき、またその加害を反省していないとき、我々は彼に対して激しい憎悪を抱く。こいつは自分が何をしたか分かっていないのか? ならば私が教えてやる、分からせてやる。

自らが受けたのと同じ痛みを相手にぶつけることで、相手の反省、後悔、あるいは絶望を促そうとする行為と言ってもいい。苦痛相殺型が相手の反応を必要としない=相手は死んでもかまわないのに対して、被害伝達型はそのゴールを相手の反省と謝罪に据えているため、それを得るまでは殺すことができないという制約がある。

虐待や抑圧を受けてきた子供がいわゆる「毒親」に対して抱く復讐心には特にこの要素が見受けられる。加害者が加害を行っていながらその自覚に乏しく、それどころか躾として「よいことをしてやった」と認識しているケースがままあるからである。



③報復型

──やられたらやり返す、倍返しだ。

「わが身とその庇護下にある者の受けた侮辱はすみやかに晴らすべし」──これはわが国においては武士道、西洋では騎士道として古くは当然のこととされていた価値観であった。赤穂浪士の「忠臣蔵」はまさしくこうした動機に端を発する代理復讐の物語である。

他のパターンとの最大の違いは、報復型の復讐は「感情(苦痛)よりも、与えられた害そのものに対しての仕返し」であることだ。先に見てきたような自らの苦痛の解消はさほど重視されておらず、ここで大きく働いているのはマッチョイズム的な競争の原理である。

侮辱を加えられたのに黙って耐えているなんて格好悪い、男がすたる、というような言説は今でも耳にすることがあるだろう。体面──つまりメンツを保つことを目的とするマウントの取り合い、というと少々聞こえが悪くなってしまうかもしれないが、プライド=人としての尊厳を剥奪されるような事態が起こったときに、それを取り返したいと願うことは自然な欲求である。

ヤンキーグループなどで行われる「けじめ」としての加害、また「お礼参り」などの文化はこうした動機を強く持った復讐の一種である。

犯罪者などが「警察に告発した者」や「裁判で不利な証言をした者」に対して行う報復行為や、あるいは学校の卒業生が在学中に恨みを持った教師あるいは上級生、同級生への報復、「上司と部下」「先輩と後輩」という立場で虐げられていた場合、関係解消後に行う報復行為などを意味する。


また、かの有名な「やられたらやり返す、倍返しだ」の台詞が指し示すように、この報復は競争である以上、「目には目を」の相殺では足りない。報復行為は与えられた害以上に拡大したものになる傾向が強いように思われる。ではそれを言った半沢直樹の行為はどこに帰するのか? という話は込み入ったことになるからここではやめるとして……

ひとまず「復讐」は恨みを晴らすといった感情的な要素の強いもの、「報復」は与えられた害に対しての行為、といった言葉の用法の差があることは記憶に留めておきたい。



④社会貢献型

──こんな奴、死んだ方が世の中のためだよ。

復讐はしばしば、勧善懲悪の文脈に沿って正義の制裁と見なされる。誰もが憎く思うような悪党、野放しにされている罪人、それを痛めつけることは「当然で正当な行為だ」と観客は認識するのである。加害者の個人情報をインターネットに晒す行為が「社会的”制裁”」と呼ばれるように、これも一種の代理復讐の形を取っている。

英語では「revenge」=個人的な恨みのための復讐と、「avenge」=正義のための復讐が区分けされている。復讐のために法に背いて人を殺しているような場合でも、その動機が大衆に共感されるようなものであるときにはそれが”善行”と見られ、復讐者はヒーロー視されることさえあるのだ。

社会貢献型の復讐者はここからさらに2つの傾向に分かれる。まずは強い正義感を有し、「自分のような辛い思いをする人をもう出したくない」と考えて加害者を成敗するパターン。あるいはもっと過激な言葉を使うなら「こんな奴死んだほうが世の中のためだ」。このように、自らが受けた被害についての復讐を望む復讐者であっても、まるで自らが社会の代行者であるかのように自認しているケースがあるのだ。

そしてもうひとつのパターンが「憂さ晴らし的制裁」である。この場合、復讐者にはもともと社会秩序に反したいという欲求がある。とにかく加害者を残忍にいたぶってやりたかったり、単に暴力への衝動を鬱積させていたりという下地がある。だがその欲求はむき出しのままでは到底認められない。そこで彼らはよい正当化の論理に出会う──「これは自分の欲ではなく、社会のために汚れ仕事を引き受けているだけなんだ」。

憂さ晴らし的制裁は、正当に(見えるように)暴力を行使するための論理である。そして動機がどのようなものであれ、彼らも時に英雄視されるのは皮肉なことだ。



⑤苦痛共有型

──私もあの人と同じ目に遭いたい。

復讐者は憎悪のために人生を奪い去られて、およそ「生きている」とは呼べないような苦痛の中に常に身を置いている。世の中のほとんどの人間は、たとえ許しがたい被害を受けてもその記憶を徐々に忘れ、怒りも時とともに薄れさせてゆく。人が復讐を誓うとき、それはただ相手への報復を望むだけではない……相手を絶対に許さない、この苦痛と憎悪を忘れないことを誓うのである。たとえその怒りが自分を内側から焼き尽くすものであったとしても。

苦痛共有型は、自らが復讐という苦しみの道を辿ることで、被害を受けた第三者と”同じ経験を得る”ことを目的とする。この動機に限っては直接復讐ではあり得ず、「加害者」「被害を受けた第三者」「何もできなかったわたし」が揃って初めて発生する。

彼は思う──「自らの半身であるあの人が残酷に痛めつけられたのに、どうして自分だけがのうのうと生きている?

サバイバーズ・ギルト (Survivor's guilt) は、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。


これは苦痛相殺型で見た「どうしてお前だけが……」の裏返しである。被害者と己を一心同体と感じ、運命共同体であるかのように自認しているとき、片割れへの加害はそこに耐えがたい亀裂をもたらす。つまり、「あの人は苦痛と絶望の中にいるのに自分だけが助かった」という不公平。この違和感は同じ運命を辿ることこそが正しかったのにそうできなかった、という意識をもたらし、次第に被害者への罪悪感へと変貌する。

復讐。それは自らを焚き木として相手を燃やす自滅的な行為である。逃れがたい被害者への罪悪感は、復讐の苦痛によって解消される。傷害あるいは殺人という罪を犯すこと、完全な社会的死、天国からの拒絶──これをもって被害者と同じ目に遭うことこそが最も重要な動機なのである。

そうして苦痛共有型の復讐者は、相手を痛めつけることよりもそれによって”自らが罪人になる”ことを強調する傾向にある。




3.おわりに

なんとなく一括りにしていた「復讐」の概念も、分類によってそれぞれに性質が異なることが分かってきた。改めて述べておきたいのは、多くの場合には複数の動機が入り混じっており、ただその割合が大きかったり小さかったりするだけだということである。

最後にもうひとつ別の視点を追加すると、被害の受け方や動機によって復讐の対象もまた変化する。①対個人、②対集団、③対世界。社会や特定集団への憎しみは「あいつら”全部が”敵だ」という拡大解釈を招くことになる。こうして、一見なんの加害も行っていないような人ですら、時に復讐される側に回ることになるのである。

形式、動機、対象。この3つの視点を用いることで、分かりづらかった復讐者の心理も少しは解像度を上げることができたのではないだろうか。代理復讐者は、ただ被害者の恨みを晴らすことを代行しているだけではなく、自らの内にも逃れがたい葛藤を抱えている。そのすべてを無視して「被害者は復讐なんか望んでいないからやめろ」と諭してもそんなことは土台無理な話なのだ。いやまあその言葉で我に返る復讐者も居はするのですが。


というところで、オタクによる復讐概論Ⅰの講義は終了です。ご清聴ありがとうございました。



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参考文献
「復讐者の悲劇、あるいは圧政と反逆のパラドクス」中野弘美
「あくまのじがぞう展 復讐の章」宮沢原始人
「謎解き『ハムレット』:名作のあかし」河合祥一郎
「完全復讐マニュアル」三才ブックス



とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?