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夕暮れに歌うから

 木嶋哲は日が落ちて暑さが幾分和らいだ川辺を歩いていた。
 街並みは黒い切絵のようで、すれ違う人の姿がかろうじて判別できる程度だった。
 芯のある伸びやかな声が、たんぽぽの綿毛のように風に乗って哲の耳元に届いた。子守唄に似た調べは眠気を誘い、夕焼けがまるでとろとろに溶けた蜂蜜みたいに見えた。
 その後も夕暮れの川辺を歩く度にどこからともなく歌が聴こえた。耳を傾けると、仕事に追われてくたびれた心のかさぶたが剥がれ落ちるようだった。
 歌う人の姿を知らないまま、ひぐらしが夏の終わりを告げ、コオロギが秋の始まりをさえずった。ある夕刻、川風に煽られた五線紙が哲のスーツの裾に張り付いた。鉛筆で書かれた几帳面な音符が肩を並べている。
「すみません。風で飛ばされてしまって」
 声とともに華奢な影が哲に駆け寄った。女性が差し伸べた手は爪が短く整えられていた。
「キミの?手書きだね」
「ええ」
 趣味で曲を書いてるんです、と人懐こい猫のように笑った。哲は思いついた風に、
「もしかして、最近いま時分にこの辺で歌ってる?」
「はい。あの、聴いてくれてたんですか?」
 女性は贈り物の箱を開ける子供みたいに顔を輝かせた。素直な笑顔につられて哲も相好を崩した。
「いい声だ。よく通る」
「以前はもっと大きな声が出せたんですが」
「けど、いいよ。この時間帯の雰囲気に合ってる」
 哲の言葉に女性は照れた風に顔をほころばせた。
「夕暮れ時に歌うのが好きなんです。夕日が沈む頃、家に明かりが点るでしょう。そこには確かに誰かが暮らしてる。今日一日一生懸命働いた人、これから働く人。家族団欒だったり独りだったり。その明かりひとつひとつに向けて、お疲れ様、頑張ってって、思いながら歌うんです」
「ふうん。いいね」
 哲は楽譜の曲を聴かせてと促した。女性は藍に染まり始めた空へ向けて歌い始める。声は雲に届くほど伸びやかだった。哲が横顔を盗み見ると、音を愛おしむように目を細めていた。
「将来は歌で食べていけたらなって思ってました」
「デビューしたらCD買うよ」
 哲が悪戯っぽく小指を立てる。女性は肩をすくめて笑った。
「僕は木嶋。キミは?」
「水無瀬雪です。雪は真っ白な雪」
 哲と雪は一番星を見上げて歩いた。雪は会話が途切れると歌を口ずさんで余白を埋めた。ベートーベン、スメタナ、ドボルザーク。今日の働きを労う憩いの歌が空に吸い込まれていく。
「新世界よりだ」
 哲が鼻高々に言うと雪はご名答とばかりに笑った。不意に雪のバッグから旋律が流れた。液晶画面に指を滑らせ、「もう帰る」と短く答えて通話を切る。
「親が心配症なんです。すぐ電話を掛けてくる。あ、今の曲も私が作ったんです。ではこの辺りで」
 雪は土手を駆け上がりながら小声で歌を口ずさんだ。哲は音を拾い集めるように耳を澄ませた。
 その後も夕刻に歌を聴いた。姿は見えなくとも確かにいる。そう思うと胸に小さな明かりが点って、影絵のような街並みに暮らす誰かを労いたくなった。
 川辺の紅葉が赤く色づき、夕暮れが駆け足で夜を連れてきた。やがて歌は木枯らしに絡めとられたかのように、ぱたりと止んだ。
 哲は冴えた風が渡る川辺で雪の歌を不器用に口ずさんだ。手袋もマフラーもないけれど、どこか温かだった。ある夜、川辺は一層冷えた。あんまり寒くて、会えないなあと呟く代わりに歌を口ずさんだ。今まで聴いた全ての歌を耳の奥から掻き集めて口ずさむと、胸の明かりがか細く点った。その晩、真白な雪が川辺に積もった。
 滑るように暮れゆく冬の川辺で、紅葉の季節に聴いた歌を口ずさんでいると、覚えのある旋律が耳に飛び込んできた。今の曲も私が作ったんですと記憶の中の雪が言った。
「どうしたの?歌わなくなったね」
 哲は木々の影に佇む華奢な女性に努めて明るく声を掛けた。瞬きも忘れて答えを待った。一度話したきりの男の事を果たして覚えているだろうか。
 女性の手元で四角い光が点った。照らし出された横顔は前髪が少し伸びていたけれどやはり雪だった。哲は差し出されたスマートフォンの液晶画面の文字を読んだ。
「あれからも聴いてくれてたんですか。‥うん、聴いてた。だから、どうしたのかなって」
 雪が再び文字を打ち込んで哲に差し出す。
「‥‥え?」
 哲は慌てて文字を読み返した。
「声が出ないんです。喉を手術したから。夏頃から決まっていた事で、手術をすれば声に関わる神経が傷ついて、元のようには歌えなくなるって。だから、ずっと歌っていました。ありがとう。あの日、私の声の行き場になってくれて」
 雪は深々とお辞儀をすると立ち去ろうとした。哲は今まで聴いた雪の歌を、声の限りに不器用に歌い上げた。
「キミの歌は僕が覚えてる。夕暮れに歌うから、歌が聞こえたら僕を見つけて」
 哲は小指を差し出した。雪はぽろぽろと涙を零して細い小指を絡めた。冷たい風が吹き抜けたけれど、繋いだ指は温かだった。
 

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