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2月・生まれ変わった体験をした2-2

はじめに

こんにちは。起業しようと決めてから、頭の中の整理と誰かに応援してもらうためにnoteを書いている看護師ひよこです。前回の記事では生まれ変わった体験の前編を書いたので、今回はその続きを書きたいと思います。


嘘つきだった子ども時代

木刀を持って私たち妹弟を制圧していた父と、「わたしは子どもが子どもを産んだのよね」と口癖にしていた母の第一子として育った私は、とにかくこの家から出て生きていかなければと小学校5年生の頃から決意を固めていました。熱心な宗教家の家だったこともあり、日曜日には宗教の子ども部会にも通わされていましたし、家では毎日朝晩のお祈りも課せられている状況でした。

父親の元には父を慕う(今思うと、それが父を慕っていたのかどうかはわかりませんが・・)若者たちが毎週集まり、マージャンをしながら父の理想を夜通し聞かされるということが続いていたこともあります。宗教の子ども部会でも、父が語る理想も、小学校5年生くらいになると「なんだかつじつまがあってない」ことに段々気がつき始めます。妹は登校前に木刀で頭頂部をたたき割られ(その時はそう感じていたけど数センチの傷だった)て出血し、病院にもいかせず、父親が「学校には本棚から本が落ちてきてけがをしたというように」と言ったときも動じない(世の中ってそういうものなんだなぁ)こどもでした。

近所では「あっこちゃん(私の名前)はいい子よね~いつもお利口よね~」と言われていたように記憶しています。いつもいい子でした。親の前でも学校でも・・・。親や学校や近所にいるすべての大人が敵でした。大人に怒られないために数々の嘘をついていました。友達にも妹弟にも嘘ばかりついて、そのうちどれが本当だったのか嘘だったのか自分でもわからなくなるほどでした。上手に騙せていた(とその当時の私は思っている)ので、私は将来役者(嘘つきではないんだけど)になれるかもとこども心に思っていました。当時のお友達のみなさま本当にごめんなさい。

アッシー・メッシー・みつぐ

1985年から1991年までの日本で起こったバブル景気の時代に、「アッシー・メッシー・みつぐ」という言葉が流行りました。私の解釈ですが・・・アッシーとは、車を持っていて都合のいい時間都合のいい場所まで送迎してくれる人。メッシーとは、高級料理をご馳走してくれる人。みつぐとは、なんでも好きなものを買ってくれる人。身体の関係はないのに女性の欲望を満たしてくれる男性の方々のことだと理解しています。その当時の私の感覚にぴったりくるこの言葉達をよく使ってましたし、結婚相手は私の欲望を満足させてくれる人だと思って探していました。「好き」とか「愛してる」とかの本質ではなく、「私の人生を幸せにしてくれる人」を探していました。いろんな男性とお付き合いさせていただきましたが、当時のみなさまに土下座して謝らなければならないことばかりです。

結婚そして子育て

21歳の時に参加した中国ツーリングでいまの夫に出逢います。1988年、長崎の「HOZOJI」というバイク屋のおじさんが、「中国の公安でトライアルショーをしたあとに、白バイ先導で中国大陸をツーリングする」という企画を作り、JTBとHONDA協賛でイベントを作ったのです。その企画に参加して1週間後に帰ってきたときには夫と結婚したいという衝動が抑えられませんでした。(その半年前まで、3年お付き合いしていた彼がいて、とってもとっても大切にされていた経験があったのに。彼にも本当に謝らなければならないことばかりです。彼のご両親にも顔向けできません。)

結婚して3人の子宝に恵まれました。私なりに一生懸命育てたつもりです。子どもが学校に通うようになると、私に様々な課題が降ってきます。PTAのありかた、子ども同士のトラブル、学校の成績、部活動、進学・・・。そのたびに子ども達に言い聞かせていたのは「人は信用できない」「自分で頑張らなければ幸せにはなれない」「人には迷惑をかけないようにしなさい」

そんななか、3人のうち2人が学校に行かない時期を迎えることになります。

長崎純心女子大学児童保育科3期生

2005年~2009年長崎純心大学で幼稚園教諭1種・保育士・図書館司書・情報処理士などを学ぶ機会をいただきました。看護師は夜間の専門学校(長崎市医師会専門学校)だったので、39歳から大学生として学べる喜びに満ち溢れていました。1限から6限まで隙間なく授業を入れ(同じお金なのに空けるともったいないと思っていた)、4年生までピアノの授業が毎週ある大学なので空いてる時間はピアノ室でピアノに向かい・・・

2人が学校に行かないときはこの時期に重なります。私は自分自身の学ぶ時間の確保に必死で、子ども2人が行かない想いまで聴いてあげる余裕がありませんでした。

「自分の人生は自分で決めなさい」「お母さんはしらんよ!!」

と朝から怒鳴って学校に行ってました。幼児教育を学んでいたので、これまでの私の子育てが間違っていたことまでは理解できていました。だけどいまさら自分の子育てを軌道修正することなんてどうしたらいいのかわからなくなっていました。気持ちを聴くことが大事だからと聴く時間も作るのですが、最後は「あなたの人生なんだからね」という言葉で帰着させる。ダメダメな時期を過ごしています。

看護師復帰そして「何とかしたい病」にかかる

幼稚園教諭1種・保育士・図書館司書・情報処理士などの資格は取得したものの、子ども達の大学の学費などのことを考えると看護師もありかなぁ・・と「長崎県看護協会」で人材紹介のページをクリックしてみたら、翌日協会から電話がかかってきました。「長く働いてない方でも受講できる講習があるので受けてみませんか?」と誘っていただいて、研修先の病院の総婦長さんからのご縁もあり、20年ぶりに看護師に復帰しました。

20年間の医療の進歩はすさまじく、使用する機材もまるで違うので最初の1年くらいはおっかなびっくり働いていました。だけど1年も経つといろんな課題が見えてきます。有給消化できないって何?有給を自分の使いたいときに使えないってどういうこと?なんで真面目で優しい看護師さんから辞めていくの?患者様優先って、じゃあ職員は何番目??

ずっと看護師をしていなかったこともあるでしょう。専業主婦の間、いろんな世界をみていたせいもあるでしょう(長崎市主催の数々のボランティア講座や市民運動に関わっていた)。私の眼には理不尽で不合理な働き方を強いられている看護師が、患者様の支援に笑顔で頑張っている姿にしかみえませんでした。

聴き合う場を作りたい

2018年からの5年間、いろんなコミュニティに参加したり、いろんな学びの場で対話するうちに、「聴き合う場」を作っていきたいと思うようになりました。いろんな場で主催イベントも継続していましたが、なかなか社会全般に聴き合う場が拡がっていかないジレンマを感じています。そこで、自分でもなにかお役に立てることはあるかもしれない。みぃちゃんのライフタペストリーを受けてみよう!!と覚悟を決めました。

心の奥底にあったものをみつけて安心した

誰かの役に立つかもしれないと思って受講したのに、自分自身の内面をみつけることがそれに役立つのだとわかったのは、講座が終了したあとでした。子どもの頃からの体験によって自分が握りしめている信念。私の場合は「人は信用できない」でした。そのエンジンが常に駆動している。講座終了後5か月経ったいまも駆動しています。それは毎日駆動し続けています。

ただ、そこから世界をみている自分自身を感じることができるようになった。それだけで、たったそれだけで生きるのが楽になったんです。読んでる人は不思議だと思います。私も、受講するまでは半分しか理解できなかった。感じることをシャットアウトしてたんですね。痛いから・・・

人を信じていません。だからこそつながりを信じたい。

私のエンジンを乗せ換えることなんてできません。心の奥底にある無意識レベルなんです。だから出逢ってすぐに笑顔を見せることもできません。生存本能が防御しています。相手のために生きるのを辞めました。私は私が信じる世界を創り出したくて生きています。だけどめちゃめちゃつながりたい。

世界はひとつでしょ!平和な世界にしたいでしょ!

「世の中ってこんなもんでしょ」を変えたい

昨年孫が2人できました。長女の子が10か月、次女の子が7か月になります。この孫に残したい世界を創りたい。私がどんな世界を残していきたいのかをこれからも発信していきます!!

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