悲しみや苦しみはひとと比べるものじゃないし、比べなくたっていい

やあ。

「悲しみや苦しみはひとと比べるものじゃないし、比べなくたっていい」

そんな言葉と最近出会いました。この言葉を見て、どんな感情が浮かび上がってくるだろう。

ヒトの感情が数値化できたら、世界はどうなってしまうんだろう。精神科のお医者さんは楽になるのかも。「苦しみが96ですね、ではこのお薬」「悲しみが36ポイント下がってますね、良好ですよ」とか。

数値化できるということは、ひとと比べられるということ。じぶんのつらいという感情が、他人と比べてどこに分布しているのか、表やグラフで可視化されるということ。それは救いにもなり、呪いにもなるのかもしれない。

数字は絶対的で客観的なんだろうか。「5は2よりも大きくて、8よりも小さい。」算数の世界なら、それはいとも簡単に信じられる。じゃあ、ヒトの感情なら?「あなたの苦しみ指数は10段階で5です」どうなんだろう。「2よりも大きくて、8よりも小さい。」なんだその説明。

私はちっぽけなことで悩んでしまうところがある。こころとからだがすぐに疲れてしまう。こんなことでクヨクヨ悩んでるなんて恥ずかしい。周りと比べたら、もっと苦しそうなことに挑戦してる人だっているのに。がんばらなきゃ。もっともっと。

そう思う反面。

でも、私はこんなことでも苦しいんだもん。しかたないじゃん。がんばってるんだもん。そもそもがんばらなくちゃいけないなんて、苦しまなくちゃいけないなんて、誰が決めたの。楽しく、それこそ楽して生きちゃいけないなんて、どうして生きてるの。

そんなことを考えてしまう。

当たり前ができない私。朝起きて、学校へ行って、課題をする。そんなこともできない私。無理やり起きて、講義室の中でひとり涙が止まらなくて、自分でもびっくりして結局帰った日。ふと、頭によぎった。

「分かりやすく可哀想な人はいいなあ」

びっくりした。なんてことを考えてしまったんだって。怖かった。それでも、そうだそうだとうなづく自分が透けて見えた。

「つらい、さびしい、くるしい」

容易に吐けば、メンヘラというラベルを貼られて、世の中に陳列される。ああ、またか。またなんか言ってるよ。はいはい、どうせまたああなるんでしょ。

そういう視線から逃れる手段として、私はそのラベルでじぶんを叩き売りすることを選んだ。そうそう!あたしメンヘラなの!すぐ病んじゃって〜。そうまたなの!どうせああなるのよ〜。

ああ、分かりやすく可哀想な人はいいなあ。

虐待されて死ねば分かってくれるのだろうか。ガンに侵されて死ねば涙を流し、手を差し伸べてくれるだろうか。呆れのため息や、疑いの視線から逃れられるのだろうか。

わかってる。本当に虐待や病気と闘ってる人に失礼だということは、重々わかっている。それでも、もし、人生を変われるなら変わって、そしてひっそりと死んでしまいたいと思う瞬間がぷかりと浮いてくるときがある。そして、これは変われないというセーフティーゾーンから吐く、あまりにもぶっきらぼうな愚痴であることもわかっている。なんだかんだ、私は私がかわいくてたまらない。

少し脱線してしまったので、話を戻すと。ヒトの感情が数値化できたら、世界はどうなってしまうんだろう。

「私の苦しみの数値はやっぱり高かったのね。今は休んでいいのね。つらかった。苦しかった。だって私の数値は86ですもの。」

「寂しいと思ってたけど、数値は44か。もっと寂しい人も大勢いるんだ。そろそろ前を向いてがんばらなくちゃ。」

「こんなに悲しいのに。たった19だったなんて。19しかないのに、僕はこんなふうになってしまうなんて。だめなやつなんだ。もう、だめなんだ。」

きっと、数字に救われる人もいる。そして、数字に呪われる人もいる。

具体的にどんな方法で数値化するのか、未知だから、よくはわからない。精度がどの程度のものなのかも分からない。でも、いくら専門家が「素晴らしい精度です!」と断言したとして、私たちはそれを受け入れられるのだろうか。その数字を信じられるのだろうか。じぶんの感情のものさしを捨て、“絶対的なものさし”を他人と同じようにあてがうことを選べるだろうか。

「悲しみや苦しみはひとと比べるものじゃないし、比べなくたっていい」

この言葉がいつか飾りになる時が来るんだろうか。その時私は、救われてるんだろうか。呪われてるんだろうか。私の心はいまは少し、傾いている。

ところで君は、元気ですか?


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