何かをプラスにしていく生き方は向かないらしい

最近ずっと感じていた違和感がおぼろげながら形が見えてきました。

もともとインプットすることが大好きなので、いろんな人達の生き方に触れることは多いのですが、その人達は、基本「すごい人」「認められている人」たちばかりです。

だから、自然と「ああなりたい」とか「いいなぁ」と思うことは数多くあります。
成功するとか、楽しくやる、とか。何かをプラスにしていこうとすること。

これって「素晴らしいこと」なんだよなぁと思う一方で、違和感も感じている自分がいます。でもこの違和感を言葉にするのに、「意識高い系(笑)」みたいなちょっと嘲笑するようなニュアンスの言葉しか出てこなくて。

言いたいことはそういうことじゃないんだよね、と。(笑)をつける権利はそもそも私にはないし、嫌いというわけじゃないけど、正直仲良くしたいというわけでもない。

何かをプラスにしていくというこの生き方自体が「自分には向かない」という言葉がふと浮かんだ時に、「ああ、そうそう、誰かを傷つけたいわけじゃないんだよね」ただ、そういうふうに生きることになんか違和感なんだよ。

では、どうして「向かない」んだろう。

線を引くことと、声を投げること。

私の中で、考えることは「線を引くこと」。何か発信することは「線の向こうに声を投げること」のような気がしています。

考えるという行為は、ひたすら自分の中での意味付けや区別をすることであり、自分とその物事の間に線を引くからこそ、その対象が理解できる。
「分かるは分けると書く」。日本語ってほんとうすごい。

そして、わかったことを発信するって、「線の向こうに声を投げる」ことのように感じているのです。

私は、線の向こうに声を投げることで、少なからず「そうである人」「そうではない人」という線引きが生まれることを心のどこかで許容しきれない。

小学校ぐらいの頃、「部落差別」の問題を道徳の時間で知り、「ああ、こんなこと教えてほしくはなかった」と心から思ったことを思い出します。
それまでの私は、「部落」というものを本当に知らなかった。だけど知ったことで、私の中に「部落」と「部落ではない私」が生まれてしまった。

差別するなんて、本当に理不尽でひどいこと。だからそんな気もちには全くならないけれど、私はこれから、そういう人たちがいる、という認識を持つことになる。
私はもう、その人達に出会った時に、態度は変わらなくとも、何も知らなかったときと同じ気持ちが持てなくなってしまったと悲しく思ったのです。

幸せは自分の心で決めること、とはいえ、これが幸せであると誰かが発信したとき、自分とその幸せの間の関係値を決める必要があります。

成功したことを発信するということは「成功した」ということを定義し、「成功していない」世界との線を引き、声を投げること。
「成功していない」世界にいる人は「成功していない」ことに気がついてしまう。知らなければそのまま幸せ、と思えていたかも知れないのに。

もしかしたら、今まで知らなかったからこそ幸せだったのに、それを知ってしまったことで「ああなりたい」「今の幸せって幸せ?」と思わせてしまうのではないかと。

知ることは、素敵なことでもあるけれど、残酷なことでもある。
それでも人間は、「自分では無いもの」があるからこそ、「自分」というものが認識できる。
こういう方法でしか世界を認識できないということが、本当に悲しくなってきているみたいなのです。

なんでもない私でいたい

自分自身が、そういうことで少し傷ついてしまうこともあります。
相手は絶対に傷つける意図で言っていないとしても、「そうである」ということが良いというのが世界の一般的な認識だからこう言うのだろう。
では「私はそうではない」ということを、どう捉えようか。

なんでもないものごともあれば、そうではないことに幸せを感じたり、逆に少し暗い気持ちになったり、なんか不幸なのかな、と思ったり。

明るい世界(と思っているのは自分なんだけど)に触れていると、自分が同じ世界にいないからこそ、明るい世界を見たくなる。
自分が幸せになるために、暗い世界を見てほっとするのは、はっきり言って性格が悪いし、自分が暗いと思っている世界の人たちが本当に暗い世界にいるのかなんて、誰も決められないのに。

だから、私は自分の意見を言う、ということは本当はしたくないことみたいです。するとしても、できる限りその対象だけに、それを肯定することしか言いたくない。

誰にも、自分にも、そういう気持ちをできる限り起こさせないように、本当になんでもないように生きていたいなぁ、って思っている気がします。

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