なにものにだってなりたくないのだ

向上していこう、成長していこうという生き方はどうも合わない、というお話の続き。

「本質的なことにしか興味がなくなってきたんだ」と誰かが口にしたとき、ああ、私も本当にそうだ。と思った。

本質的ということを突き詰めて考えてみたら、
そもそも、自分の本質ってなんなんだろう、って思い始めて、ただ、ほんとうになにものでもない自分そのものかな、と思った。

なにものでもない
だれかのものでもない
もしかしたら、私は私のものですらないかも知れない。
ただ、存在はしているという意識があることははっきりしてる。

時に、私は私自身の存在を消したくなるのだけど、それは「私」であるという意識そのものが、いろんな気持ちの原因だっていうのが理由の一つだったりする。

○○だから、もしくは、○○ではないから嬉しい・苦しいというのは「私」という意識があるから、私以外のものとの関係性があるから。
一つのものしかなければ、嬉しいとか苦しいとか、生まれることなんて無いから。

「なにものでもない」自分を想像してみたら、私が怖がっていたり、縛られていたりするものたちにはなんの意味もないことに気がついた。
だけど頭からは、心のなかに怖がっている「私」がいることがよく見える。

私の頭と心は、なんだか、逆の動きをしているみたいだ。

心の赴くままに、自由に、本当の望みは心が知っているって言われるけれど、
私の心の場所には、今までの経験からなのか、とにかく世界を怖がっていて、踏み出せないような感覚があって、それを冷静にみている私が頭の中にいる。頭のわたしは、心が見ている世界のほうが幻想で、世界を怖がる必要なんて無い、本当は自由だってことを知っている。

とりあえず、怖がっていておどおどしている心の私をなだめつつ、頭の私が世界と向き合っていくことになりそうだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?