潔い姿をそのまま受け止めて~マユンキキ「SINRIT シンリッ — アイヌ女性のルーツを探る出発展」

1月30日に終了した
マユンキキ「SINRIT シンリッ — アイヌ女性のルーツを探る出発展」
Mayunkiki “SINRIT teoro wano ainu menoko sinrici an=hunara”


感想を書くのに何日も要したのは、それだけ濃い展示だったから。今の気持ちとして記しておきます。
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言葉は許しや癒しになるとともに毒にも刃にもなりうる。
マユンキキさんは、それを十分すぎるほど知っている人だ。だからこそ、発する言葉に対して、過剰なまでに慎重だ。
そんなマユンキキさんの今回の展示は彼女のもっとも身近な5人の「言葉」によって成り立っていた。もちろん、展示は映像と文字や写真による構成・表現ではあるが、そこにあるのは数多の言葉。それらから彼女のルーツを彼女とそれを見る(聞く)わたしたちで探そうというもの。

タイトルにある「SINRIT-シンリッ」というアイヌ語は日本語でいうと「根」、英語では「root」に近い言葉だそう。
根っこ、原点……「ルーツ」を探るというと、わたしは、先祖を遡ってその源になるものを探すというイメージを持ってしまう。でも、今回の展示では遡って探るというわけでもなかった気がする。

身近な5人とは父、母、姉、義兄、友人。マユンキキという人が今に至るまでに絶対に存在しなくてはならなかった人たちだ。身内から居ずまいを正し、あらためてインタビューされるなんてなかなかないことだろう。話し始めの戸惑うような硬い表情。そうして話し続けるうちにいつしか対話はなめらかになり、受け取るわたしたちがハッとするような言葉が見え隠れしてくるのだ。
話されるのは、親子のやわらかな情や他愛のない生活のこと、美意識について、音楽のこと、そして、アイヌに対する心もちだ。
その対話の中から、マユンキキという女性が次第に浮かび上がってくる。

自分が自分であるということは切り離せない。大切にしているのに理解されないもの。捨て去ってしまいたくても抱えていかなければならないもの。そういうものは誰にでもあるはずだ。でも、そんなことを意識している人は、もしかしたら少ないのだろうか。「普通」という言葉に自分を押し込んで、素知らぬふりをして生きるのも必要かもしれない。その生き方が悪いというのではない。
しかし、自分の中の他の人とは違うかもしれない何かが、誰かの優越感を満たしたり、攻撃の対象になったり、無用な哀れみをもって見られたり、美化され過ぎたりするのは違うと思うのだ。

そこにあったのは「今」を生きる一人のアイヌ女性の姿であり、それ以上でもそれ以下でもない。
それは、強くもあり、守ってあげたくなるくらい弱くもあった気がする。その姿をそのまままっすぐ受け止めてみる。同調するのではなく。あなたとわたしは違う、違うからこそ楽しいし、面白い。そんなふうに一緒に歩いていけたらよいのではないか。

今回、生身の自分を惜しげなくわたしたちにあらわにして、それぞれに考えるきっかけをくれたマユンキキさんの潔さは美しかった。
SINRITは出発点。ここからどんな幹が根付き、枝葉が伸び、花咲き、実っていくのかが楽しみでならない。


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